偶像の黄昏
あるいは、いかにしてハンマーを手に哲学するか
この訳はAIによる意訳です。原文の意味を崩さない範囲で、くだけた現代の日本語にしています。原文はパブリックドメインのドイツ語テキストに基づきます。
01序文
暗苦しくて、とてつもなく責任の重い仕事の真っ最中に、ずっとゴキゲンな気分を保ち続けること。これは並大抵の芸当じゃありません。だけど、明るく朗らかなこと以上に必要なことなんて、ほかに何があるっていうんでしょう? どんなことだって、お調子者なノリがちょっとくらい混ざっていないとうまくいかないものです。力が「有り余っている」ことこそが、本当に力があるっていう証拠なんですから。
すべての価値をひっくり返すこと(価値の転換)――。これは、あまりに巨大で真っ黒な疑問符(クエスチョンマーク)を突きつけるようなもので、そんな問いを立てる本人にまで暗い影を落とすほどの運命的な大仕事です。だからこそ、一瞬一瞬すきを見つけては太陽の下へ飛び出し、重苦しすぎて引きずりそうな真面目さを振り払わなきゃやってられません。
そのためなら手段は選びませんし、どんな出来事だってラッキーハプニングになります。中でも一番いいのは「闘い(戦争)」ですね。昔から、内省的になりすぎてディープに考え込んじゃう精神の持ち主にとって、闘うことは最高の知恵でした。傷を負うことにさえ、実は心を癒やす力があったりします。
ずいぶん前から、私はある言葉をモットーにしています。その元ネタがどこにあるかは、学者の先生たちの好奇心をくすぐるために、あえて秘密にしておきますけどね。その言葉とは――
「精神は成長し、傷つくことで力強さは増す」(※ラテン語の格言)
もう一つのリフレッシュ方法、しかも場合によっては私の好みにぴったりなのが、「偶像たちの腹を探る」ことです。この世界には、本物の現実よりも「偶像(まやかしの神様)」の方がはるかにたくさん転がっています。それがこの世界に対する私の「へそ曲がりな視点」であり、「意地悪な耳」でもあるのです。
ここでいっちょ、ハンマーを使って偶像たちに問いかけてみましょう。するとどうでしょう。返ってくるのは、おそらくあの有名な「うつろな音」です。中身が詰まっているフリをして、実はガスが溜まって膨らんでるだけっていうアレです。耳の奥にさらにもう一つ耳を持っているような人間――つまり、私のようなベテラン心理学者であり、ネズミ捕り男にとっては、これほどゾクゾクする瞬間はありません。じっとして隠れていたいものに限って、大きな音を立ててボロを出してしまうわけですからね。
この本も――タイトルを見ればわかる通り――何よりも心理学者である私の息抜きであり、木漏れ日であり、ちょっとした寄り道(サボり)です。あるいは、新しい闘いの始まりでしょうか? 新たな偶像の腹を探る闘い?
実のところ、この小さな本は、壮大な「宣戦布告」なんです。今回ハンマーで音叉のように叩いて腹を探る相手は、そのへんの流行りの偶像なんかじゃありません。「永遠の偶像」たちです。これほど古くから信じられ、これほど独りよがりで、これほど威張散らしている偶像はほかにありません。……まあ、これほど中身が空っぽな偶像もほかにないわけですが。だからといって、みんながそれを信じ切っている事実に変わりはありません。それに、世間では(特に一番お偉いさんのケースでは)それを決して「偶像」なんて呼び方はしませんけどね。
トリノにて。1888年9月30日。
『すべての価値の転換』の執筆を終えた日に。
フリードリヒ・ニーチェ
02格言と矢
1
サボること(怠惰)こそ、すべての心理学の始まりである。……ん? ということは、心理学って「いけない遊び(悪徳)」なのか?
2
どんなに勇敢な奴だって、自分が「本当に知っていること」を口にする勇気は、めったに持ち合わせていないものだ。
3
「ひとりで生きていくには、野獣になるか、神になるしかない」とアリストテレスは言った。だが、3番目のケースが抜けている。両方になればいいのだ――つまり「哲学者」に。
4
「あらゆる真理はシンプルだ」――これって、二重の嘘じゃない?
5
私は、知りたくないことだらけだ。きっぱりお断りする。賢さというものは、知識にだってちゃんとブレーキをかけるものなんだ。
6
人間、不自然な生活や頭の使いすぎで疲れたときは、野生の自然に戻るのが一番のリフレッシュになる。
7
おいおい、人間ってのは神様がやらかした「ただの失敗作」なのか? それとも、神様こそが人間がやらかした「ただの失敗作」なのか?
8
人生という戦場から学んだこと。――私を破滅させないものは、私を強くする。
9
自分で自分を助けなさい。そうすれば、みんなが君を助けてくれる。「隣人愛」の基本原理さ。
10
自分のやった行動に対して、ビビって言い訳したり、後から見捨てたりしないこと! 後悔なんて見っともないマネはするな。
11
ロバって悲劇の主人公になれると思う? 自分じゃ持ち上げられないし、投げ捨てることもできない重荷に潰されて死んでいくこと……。うん、まさに哲学者のことだね。
12
人生に「なぜ生きるか」という目的(理由)があれば、どんな「どうやって生きるか」という手段(状況)にも耐えられる。人間は幸福なんて求めていない。そんなことをするのはイギリス人くらいだ。
13
男が女を創り出した。……一体何から? 自分の神様――つまり「自分の理想」のあばら骨からさ。
14
なんだって? 何かを探しているって? 自分の影響力を10倍、100倍にしたい? フォロワーが欲しいって? ……だったら「ゼロ(無能なイエスマン)」を探すといい。
15
死後に評価される人間――例えば私のことだが――は、同時代の人には理解されにくいけれど、声はよく届く。厳密にいえば、私たちは決して理解されない。だからこそ、私たちの言葉には権威が生まれるのだ。
16
女子会トークにて。――「真実だって? 冗談言わないで、あなた真実ってものを分かってないわ! あれって私たちの恥じらいを傷つけるテロみたいなものじゃない!」
17
私が愛してやまない芸術家ってのは、物欲がなくて控えめな奴だ。彼が本当に欲しがっているのはたったの二つ、毎日のパンと、自分の芸術。つまり「パンとサーカス(魔女キルケー)」だけさ。
18
物事に自分の意志を込める(コントロールする)ことができない奴は、せめてそこに「意味」を見出そうとする。つまり、最初からそこに何かの意思(神の計画など)があると思い込むわけだ。(これが「信仰」のメカニズム)。
19
おや、君たちは美徳だの清らかな心だのを選んだくせに、同時にちゃっかり世渡り上手な不届き者たちの利益を羨ましそうに見てるのかい? 美徳を選ぶってことは、「おトクなメリット」を諦めるってことだよ。(……と、ある反ユダヤ主義者の玄関に書いておこう)。
20
完璧な女性が文学を書くときは、ちょっとした悪さをするときと同じだ。通りすがりにお試しでやってみて、「誰か気づいてないかしら?」ってキョロキョロ振り返る。もちろん、誰かに気づいてほしいからやってるんだけどね。
21
「美徳のフリ」が一切通用しない状況に、あえて身を置くこと。綱渡り芸人がロープの上にいるときのように、落ちるか、踏みとどまるか、あるいは切り抜けるか、それしかないような場所にね。
22
「悪人に歌はない(悪人は歌を愛さない)」なんて言うけれど、じゃあどうしてロシア人にはあんなにたくさんの歌があるんだろう?
23
「ドイツ的な精神」――この18年間、この言葉は矛盾の塊(形容矛盾)でしかない。
24
物事の始まり(ルーツ)ばかり探していると、ザリガニみたいになってしまう。歴史家はいつも後ろばかり見ている。そのうち、思考まで後ろ向きになってしまうんだ。
25
満足している人は風邪をひかない。お気に入りの服を着こなしている女性が、風邪をひいたことなんてあるかい? ――たとえその服が、ほとんど裸同然の薄着だったとしてもね。
26
私はシステム(体系)をガチガチに作りたがる奴らを信用しないし、避けるようにしている。システムを作ろうとする意志は、誠実さが足りない証拠だ。
27
みんな女性のことを「奥が深い」と思っている。なぜかって? 底が見えないからだ。だけど実際のところ、女性は底が浅い(フラット)気にすら到達していない。
28
女性に男らしい美徳があるとすれば、それは逃げ出したくなるようなものだ。逆に女性に男らしい美徳がないとしたら、彼女自身のほうが逃げ出してしまうだろう。
29
「昔の人はどれだけ良心の呵責に苦しんだことか。昔の『良心の歯』はあんなに鋭かったのに、今の時代はどうだ? 何が足りないんだろう?」 ――ある歯医者の疑問。
30
人はめったに、一度のうっかり(早まった行動)だけで終わらせることはない。最初のうっかりでは、決まってやりすぎてしまう。だからこそ、たいていは帳尻を合わせようと二度目のうっかりをやらかし、今度はやらなさすぎてしまうんだ。
31
踏みつけられたミミズは身をよじる。これは賢いやり方だ。そうすれば、もう一度踏まれる確率を減らせるからね。道徳の言葉で言えば、これを「謙虚さ」と呼ぶ。
32
プライドが許さなくて嘘や偽装を憎むケースもあれば、単にビビっているから憎むケースもある(神様が嘘をつくなって言ってるから、という理由だ)。つまり、嘘をつく度胸すらないってわけさ。
33
幸せになるために必要なものなんて、ほんのわずかだ。バグパイプの音色一つだっていい。音楽のない人生なんて、何かの間違い(致命的なエラー)だ。ドイツ人に至っては、神様が賛美歌を歌っている姿を想像するくらいだしね。
34
「座ってしか思考も執筆もできない」とフローベールは言った。――捕まえたぞ、このニヒリストめ! 座りっぱなしでいることこそ、聖霊に対する最大の背徳(罪)だ。歩きながら浮かんだ思想だけに価値がある。
35
私たち心理学者だって、馬みたいにパニックになって落ち着きをなくすことがある。目の前で自分の影がゆらゆらと揺れ動くのを見たときだ。心理学者が何かを観察しようと思ったら、まずは自分自身の存在を忘れる必要がある。
36
オレたち不道徳主義者が美徳を傷つけているかって?――そんなわけないだろ。アナーキスト(無政府主義者)が君主を傷つけていないのと同じさ。君主なんてものは、狙撃されて命を狙われるようになって初めて、また王座にしっかりと居座るようになるんだからな。
教訓:道徳というものは、こちらから撃ってやらなきゃダメだ。
37
お前はみんなの先頭を走っているのか?――それって、羊飼い(リーダー)としてやっているのか? それとも、ただの例外的な存在としてか?
いや、第3のケースもあるな……ただの「逃亡者」ってやつだ。
これが第1の良心への問いだ。
38
お前は本物か? それとも、ただの役者か? 誰かの代理人なのか? それとも、代理されている本人そのものか?――しまいには、お前なんてただの本物を真似しただけの役者かもしれないな……。
これが第2の良心への問いだ。
39
幻滅した男が語る。――「オレは偉大な人間を探していたのに、いつだって見つかるのは、自分の理想を真似しているだけの猿ばかりだった」
40
お前はただの傍観者か? それとも、実際に手を貸す人間か?――あるいは、見て見ぬふりをして、脇へ立ち去る人間か?……。
これが第3 of 良心への問いだ。
41
お前はみんなと一緒に歩みたいのか? 先頭を行きたいのか? それとも、自分一人の道を行きたいのか?……。人間、自分が何を望んでいるのか、そして自分が「望む」という意志をちゃんと持っているのかを知っていなきゃいけない。
これが第4の良心への問いだ。
42
あれらはオレにとっての階段だった。オレはその階段を登っていったんだ。――そのためには、どうしても階段を越えていかなきゃならなかった。なのにあの連中は、オレがその階段の上で腰を落ち着けて休もうとしているんだと思い込んでやがった……。
43
オレの意見が正しいかなんて、どうでもいいことだ! オレは正しすぎるくらいなんだから。――それに、いま一番うまく笑っている奴が、最後にも笑うのさ。
44
オレの幸福の方程式:ひとつの「イエス」、ひとつの「ノー」、一本の直線、ひとつのゴール……。
03ソクラテスの問題
1
人生というものについて、いつの時代も、最も賢い人間たちは判で押したように同じ評価を下してきた。すなわち「人生なんてろくなものじゃない」と……。いつだって、どこでだって、彼らの口からは同じ響きの言葉が聞こえてきた。――それは、疑いに満ち、哀愁に満ち、人生への疲れに満ち、人生への抵抗に満ちた響きだった。
あのソクラテスでさえ、死の間際にこう言ったんだ。「生きるということ――それは、長く病気を患うことと同じだ。オレは医神アスクレピオスに、病気が治ったお礼の雄鶏を一羽返さなきゃいけないな」とね。ソクラテスでさえ、生きることにうんざりしていたわけだ。
――これがいったい何を証明している? 何を示しているんだ?
昔だったら、人々はこう言っただろう(いや、実際に言ったし、大声で主張した。オレたちの時代のペシミスト(嫌世主義者)どもを筆頭にね!)。
「これだけみんなが言うんだから、ここには絶対に何かしらの真実があるはずだ! 賢者たちの意見が一致していること(コンセンサス・サピエンティウム)こそが、真理の証明だ」
……オレたちは、今日もまだそんな風に語るだろうか? そう語ることが許されるのか?
オレたちなら、こう答えてやる。
「ここには絶対に何かしらの『病気』があるはずだ」と。
この、あらゆる時代における最も賢いとされる連中を、まずは近くからじっくり観察してみるべきじゃないか!
彼らはもしかしたら、どいつもこいつも足元がもうおぼつかなくなっていたんじゃないか? 時代遅れで、グラグラで、デカダン(没落者)だったんじゃないか?
知恵というものは、もしかしたらこの地上に「カラス」の姿で現れるんじゃないか? 死臭の匂いが少しでもすると、大喜びで興奮しちゃうような、そんなカラスとしてね……。
2
偉大な賢者たちを「没落のタイプ」だとみなすこの不謹慎な視点に、オレ自身が最初に気づいたのは、まさに学者や世間の偏見が最も激しく抵抗してくるような、あるケースでのことだった。
オレは、ソクラテスとプラトンを「衰退のシンボル」であり、ギリシャ崩壊の道具であり、偽物のギリシャ人、いや反ギリシャ人であると見抜いたんだ(1872年の『悲劇の誕生』だな)。
あの「賢者たちの意見の一致」ってやつは――オレはこれをますます深く理解するようになったんだが――彼らが一致して主張したその中身が正しいということを、これっぽっちも証明しちゃいない。
むしろ、証明しているのはこれだ。彼ら自身、この最高に賢いはずの連中が、生理学的なレベルのどこかで一致してしまっていたということ。だからこそ、みんな揃って人生に対して否定的になり――否定的に生きざるを得なかったのだ、ということをね。
人生についてのジャッジや価値判断は、それが肯定であれ否定であれ、結局のところ、絶対に真実にはなり得ない。そんなものはただの「症状」としてしか価値がないし、症状としてしか考慮に値しないんだ。――それ自体の判断なんてものは、ただのナンセンスさ。
ここは絶対に、手を伸ばしてでも掴み取ろうとしなきゃいけないし、この驚くべき「絶妙なからくり」を理解しようとしなきゃいけない。つまり、人生の価値というものは、決して推し量ることができないということだ。
生きている人間には無理だ。なぜなら、そいつ自身が当事者であり、それどころか争いの対象そのものであって、裁判官にはなれないからな。
じゃあ死んでいる人間ならできるかっていうと、それはまた別の理由で無理だ。
だから、哲学者のくせに人生の価値を問題視している時点で、それはもうその哲学者に対する反論になっちゃうし、そいつの知恵にクエスチョンマークがついちゃうような「無知」でしかないのさ。
――え? じゃあ何かい? あの偉大な賢者たちはみんな、ただのデカダンだったってだけじゃなく、賢者ですらなかったって言うのか?
……おっと、ソクラテスの問題に話を戻そう。
3
ソクラテスはその血筋からいえば、最も底辺の階級の出身だった。ソクラテスは野卑な民衆(大衆)だったんだ。
彼がどれほど醜かったかは、誰もが知っているし、いま見ても一目瞭然だ。
だけど、醜さというものは、それ自体が突っ込みどころ(反論)になる。特にギリシャ人の間では、醜いということは「それだけで存在の否定」になるくらい大問題なんだ。
そもそも、ソクラテスは本当にギリシャ人だったのか? 醜さというものは、よく異民族間の交配によって、成長が妨げられたときに現れる表現型だからな。あるいは、成長が衰退していく局面で現れるものだ。
犯罪学者の中の人類学者たちは、典型的な犯罪者は醜いものだとオレたちに教えてくれる。「顔がバケモノなら、心もバケモノ(monstrum in fronte, monstrum in animo)」とね。
だけど、犯罪者っていうのはデカダン(没落者)なんだ。ソクラテスは典型的な犯罪者だったんだろうか?
――少なくとも、ソクラテスの友人たちの耳にはめちゃくちゃ不快に響いたという、あの有名な人相占い師の判定は、その疑問を否定しちゃいない。
顔を見る目を持ったある外国人がアテネにやってきたとき、ソクラテスの顔を正面から見て、「お前はバケモノだ。あらゆるひどい悪徳と欲望をその身に隠し持っている」と言い放ったんだ。
それに対して、ソクラテスはただこう答えた。
「旦那、お前さんはオレのことをよく分かっていらっしゃる!」とね。
4
ソクラテスがデカダンであったことを示しているのは、本人も認めていたあの本能の荒れ狂いっぷりやアナーキーさだけじゃない。
論理(ロジック)というものを異常なまでに過剰発達させたことや、彼を特徴づけているあのクル病患者のような「意地の悪さ」も、まさにそこを指し示している。
それから、本人が幻聴を聞いていたことも忘っちゃいけない。あれは「ソクラテスのダイモニオン(内なる神の声)」として、宗教的な意味に解釈されているけれどね。
彼のやることはすべてが誇張されていて、滑稽(ブッフォ)で、カリカチュア(風刺画)みたいだった。それと同時に、すべてが隠されていて、含みがあって、地下潜伏的なんだ。
――オレは知りたくてたまらない。ソクラテスが掲げたあの「理性=美徳=幸福」という方程式が、いったいどんな特異体質(イド・シンクラジー)から生まれてきたのかを。
あんなものは、この世に存在するなかで最も奇妙キテレツな方程式だし、特に古き良きギリシャ人の本能のすべてを敵に回すようなシロモノなんだからな。
5
ソクラテスを境にして、ギリシャ人の好みは「問答法(ディアルクティク、弁論術)」の味方へとガラリとひっくり返る。そこで、いったい何が起きたというんだ?
何よりもまず、これによって「高貴な好み」が打ち負かされた。問答法を手に入れたことで、野卑な民衆が優位に立ったんだ。
ソクラテス以前のまともな社交界では、問答法的なやり方は拒絶されていた。そんなものは「無作法な振る舞い」とみなされていたし、自分を安売りして恥を晒すようなものだったからだ。若者たちは、そんなものに近づくなと注意されていた。
それに、自分の言い分(根拠)をこれみよがしに提示するような真似自体が、そもそも不信感の的だった。
ちゃんとした物事というものは、ちゃんとした人間と同じで、自分の根拠をこれみよがしに手の平に載せて歩いたりはしない。5本の指を全部見せるなんて、はしたないことなんだ。
わざわざ証明しなきゃいけないようなものには、大した価値はない。
権威というものがまだ「優れたマナー」の一部として機能していて、人々がわざわざ「理屈をこねる」のではなく「命令する」ような場所では、問答法を振り回すやつなんてのは一種のピエロ(道化師)扱いだった。笑い者にされるだけで、誰からも相手にされなかったのさ。
――ソクラテスは、そんなピエロでありながら、自分をまともに相手にさせることに成功した男だった。
……そこで、いったい何が起きたというんだ?
6
他に対策がないときだけ、人は弁証法を選ぶ。弁証法を使うと周囲に不信感を持たれるし、大して人を説得できないことも分かっている。弁証法家がもたらす効果ほど、簡単に打ち消せるものはない。言葉が交わされるあらゆる集会の経験が、それを証明している。弁証法は、他に武器を持たない者たちが手にする、単なる正当防衛の手段にすぎない。自分の権利を力ずくで認めさせなければならない状況でもなければ、わざわざそれを使おうとはしない。だからこそユダヤ人は弁証法家だったし、狐のライネケもそうだった。……え? ということは、ソクラテスもそうだったのか?
7
ソクラテスの皮肉(アイロニー)は、反逆の表れなのだろうか? 下層階級のルサンチマン(怨恨)なのだろうか? 彼は虐げられた者として、三段論法というナイフを突き刺し、自分自身の残忍さを楽しんでいるのだろうか? 自分を面白がっている貴族たちへの復讐なのだろうか? 弁証法家になれば、手元に容赦のない道具を持つことになる。それを使って暴君のように振る舞うこともできるし、勝つことで相手の恥をさらし、泥を塗ることもできる。弁証法家は、自分が間抜けではないと証明する仕事を、そっくりそのまま相手に押しつける。そうして相手を激怒させ、同時に無力化するのだ。弁証法家は相手の知性を骨抜きにしてしまう。……え? ソクラテスにとって、弁証法はたかが復讐の一形態にすぎなかったのだろうか?
8
ソクラテスのどういうところが人を不快にさせたかについては、すでにほのめかしておいた。となれば、それなのに彼が人々を魅了した理由を、なおさら説明しなければならない。まず一つは、彼が新しいタイプの闘争(アゴーン)を見出したことだ。彼はアテネの貴族たちのために、その闘争の最初の剣術師範となった。ギリシャ人が持つ闘争本能を刺激したからこそ、彼は人々を魅了したのだ。――彼は、若い男たちや少年たちのレスリングの試合に、新たなバリエーションを持ち込んだ。それに、ソクラテスは偉大な愛の達人(エロティカー)でもあった。
9
だが、ソクラテスは見抜いていたことがまだあった。彼は気取ったアテネの貴族たちの裏側を見透かしていた。自分のケース、自分という特殊な性質のケースが、もはや例外ではないということを理解していたのだ。同じような心身の衰退(デカダンス)が、至るところで静かに進行していた。古いアテネは終わりを迎えていたのだ。――そしてソクラテスは、世界中の誰もが自分を必要としていることを理解していた。自分の手段を、自分の治療法を、自己保存のための自分だけの秘策を……。どこもかしこも本能はアナーキー(無秩序)に陥っており、誰もが過度な逸脱まであと5歩というところまで来ていた。心の中の怪物(モンストルム・イン・アニモ)が、あらゆる人の共通の危機になっていたのだ。「諸本能が暴君になろうとしている。それなら、もっと強い対抗暴君を作り出さなければならない」……。あの観相学者が、ソクラテスの正体を見抜き、「お前はあらゆる邪悪な欲望の巣窟だ」と暴いたとき、この偉大な皮肉屋は、彼を解き明かす鍵となる言葉を漏らした。「その通りだ」と彼は言った。「だが、私はそのすべてを支配したのだ」。ソクラテスは、どうやって自分を支配したのか? 彼のケースは、詰まるところ極端なケース、当時誰もが直面し始めていた共通の苦難が、もっとも分かりやすく目に見える形で現れたものにすぎなかった。つまり、誰もが自分を支配できなくなり、本能同士が反目し合っているという苦難だ。彼はこの極端なケースとして人々を魅了した。その恐怖を抱かせるほどの醜さは、誰の目にも一目瞭然で彼という存在を物語っていた。もちろんそれ以上に、彼はこのケースに対する答えとして、解決策として、治療の兆しとして、さらに強く人々を魅了したのだ。
10
ソクラテスがやったように、理性を暴君に仕立て上げる必要があったのだとすれば、別の何かが暴君になろうとしていた危機は、決して小さくなかったはずだ。当時、合理的であることは救い主として見出された。ソクラテスにとっても、彼の「患者たち」にとっても、合理的であるかどうかは選べることではなかった。――それは絶対の義務(ド・リグール)であり、彼らの最後の手段だったのだ。ギリシャ人の思索のすべてが、狂信的なまでに合理性へと飛びついていったのは、彼らが窮地に陥っていたことを物語っている。彼らは危機に瀕しており、選択肢は一つしかなかった。滅びるか、それとも――不条理なほど合理的になるかだ。……プラトン以降のギリシャの哲学者たちの道徳至上主義は、病理学的な原因によるものだ。彼らが弁証法を高く評価したのも同じ理由である。「理性=徳=幸福」という公式が意味しているのは、要するに、ソクラテスの真似をして、暗い欲望に対して絶え間なく日光を浴びせ続けなければならない、ということだ。それも、理性の光を。何が何でも、賢く、明晰で、明るくいなければならない。本能や無意識に少しでも屈すれば、転落の一途をたどるのだから……。
11
ソクラテスが何によって人々を魅了したのか、私はほのめかしておいた。彼は医者であり、救世主であるかのように見えたのだ。では、彼の「何が何でも合理的であれ」という信仰に潜んでいた過ちを、いまさら指摘する必要があるだろうか? ――哲学者や道徳主義者たちが、衰退(デカダンス)と戦うことで、すでにそこから抜け出せていると思い込むのは自己欺瞞である。そこから抜け出すことは、彼らの力を超えている。彼らが手段として、救いとして選ぶもの自体が、結局はまた衰退の表れにすぎない。彼らはその現れ方を変えているだけで、衰退そのものを消し去ってはいないのだ。ソクラテスは誤解だった。人間を良くしようとする道徳の全体が、キリスト教の道徳も含めて、すべて誤解だったのだ……。あの強烈すぎる日光、何が何でも合理的であろうすること、明るく、冷徹で、用心深く、意識的で、本能を失い、本能に抵抗する生き方――それ自体が単なる病気、もう一つの病気であって、決して「徳」や「健康」や幸福への帰り道などではなかった。……本能と戦わなければならないということ、これこそが衰退(デカダンス)の定義なのだ。命が上昇している限り、幸福と本能はイコールなのである。
12
――この、自分を欺く達人たちの中で最も賢かった男は、そのことすら自分で見抜いていたのだろうか。死に臨む勇気の知恵の中で、最後に自分にそう語りかけたのだろうか。ソクラテスは死にたがっていた。――アテネが彼に毒杯を飲ませたのではない。彼が自分に毒杯を与え、アテネに毒杯を強制したのだ。ソクラテスは医者などではない、と彼は静かに自分に言った。「ここでは、死だけが医者なのだ……。ソクラテス自身、ただ、長い間病気だったにすぎない……」
04哲学における「理性」
1
哲学者たちの性質(固有の癖)って一体何なのか、私に聞きたいのかい?……
例えば、歴史的センスのなさ、変化(生成)という概念そのものに対する憎悪、そして彼らの「エジプト主義」だ。彼らは、ある事物を歴史から切り離し、「永遠の相の下に」置くこと、つまりそれをミイラにすることこそが、その事物に敬意を表することだと信じ込んでいる。ここ数千年、哲学者たちが扱ってきたものはすべて概念のミイラだった。彼らの手から、まともな生きた現実が出てきたことなんて一度もない。この概念を偶像崇拝する紳士たちは、崇拝するときにまず殺して、剥製にするのだ。彼らが崇拝するとき、それはあらゆるものにとって命取りになる。死、変化、老いは、彼らにとっては反論であり、おまけに「論破」でさえある。存在するものは変化しないし、変化するものは存在しない……。
そこで彼らはみんな、それこそ絶望的なまでに「存在する正真正銘のもの(存在者)」を信じる。だけど、それをどうしても手に入れられないものだから、なぜそれが自分たちから隠されているのか、その理由を探し始める。「私たちが存在するものを知覚できない背景には、きっと見せかけやペテンがあるに違いない。詐欺師はどこに隠れているんだ?」
「見つけたぞ!」彼らは狂喜乱舞して叫ぶ。「感覚のせいだ! この感覚のやつら、普段からあれほど不道徳なうえに、私たちに本当の世界を勘違いさせてだましているんだ!」
教訓:感覚のまやかしから、変化から、歴史から、嘘から抜け出せ。――歴史なんて、感覚への信仰、嘘への信仰にすぎない。
教訓:感覚を信じるすべてのもの、つまり残りの全人類に「ノー」と言え。それらはみんなただの「大衆」だ。哲学者であるということは、ミイラになるということであり、墓掘り人の身振り手振りで「単調な神論(モノトノ・テイズム)」を表現するということだ!
――そして何よりも、肉体を排除せよ! 感覚が作り出した、あの哀れな固定観念(イデー・フィクス)を! あらゆる論理的欠陥を抱え、論破され、存在することすら不可能なのに、厚かましくも「自分は現実だ」と振る舞っているあの肉体を!……
2
私は、深い敬意を込めて、ヘラクレイトスの名前を脇に置いておく。
他の哲学者たちが、事物に「多様性」と「変化」が見えるからという理由で感覚の証言を退けたのに対して、ヘラクレイトスは、事物があたかも「永続性」と「同一性(単一性)」を持っているかのように見えるからという理由で、感覚の証言を退けた。しかし、ヘラクレイトスもまた感覚を不当に扱っていた。感覚は、エレア派の面々が考えたような形でも、ヘラクレイトスが考えたような形でも嘘はつかない。そもそも感覚は嘘をつかないのだ。私たちがその証言をどう解釈するか、そこへ初めて嘘が入り込む。例えば、単一性の嘘、事物性の嘘、実体の嘘、永続性の嘘といったものがね。私たちが感覚の証言をねじ曲げてしまう原因は「理性」にある。感覚が変化や消滅、交代を示している限りにおいて、感覚は嘘をついていない……。
ただ、「存在」なんてものは空っぽの作り話(フィクション)だという点において、ヘラクレイトスは永遠に正しい。この「見せかけの」世界こそが唯一の世界であり、「本当の世界」なんてものは、ただ嘘をついて付け足したものにすぎないのだから。
3
――それにしても、私たちの感覚という観察ツールは、なんて精巧なのだろう! 例えばこの鼻だが、これまでただの一人も哲学者が敬意と感謝を込めて語ったことはないものの、さしあたり私たちが使える中で最も繊細な道具だ。分光計(スペクトロスコープ)ですら捉えられないような、動きの極微な差異を判別することだってできる。今日、私たちが科学と呼べるものを持っているのは、ひとえに私たちが感覚の証言を受け入れる決意をし、それを研ぎ澄まし、武装させ、徹底的に考え抜くことを学んだからにほかならない。それ以外はすべて、奇形児であり、まだ科学にすらなっていないもの――つまり形而上学、神学、心理学、認識論だ。あるいは、論理学や、その応用である数学のような「形式科学(記号の学問)」だ。それらの中には現実なんてこれっぽっちも出てこない。問題としてすら登場しない。論理学のような「記号の約束事」に一体全体どんな価値があるのか、という疑問すら湧きもしない。
4
哲学者たちのもう一つの特異性も、同じくらい危険なものだ。それは、最初と最後をあべこべにすることだ。彼らは一番最後にやって来るもの――あぁ、残念なことに! 本来ならそんなもの来るべきではないのに!――つまり「最高の概念」、言い換えれば最も一般的で、最も中身が空っぽな概念、蒸発していく現実の最後の燃え残り(煙)を、最初にあるべき「根源(始まり)」として据えてしまう。これもまた、彼らの敬意の表し方にすぎない。つまり、高貴なものが低俗なものから育つはずがない、そもそも何物からも育つべきではない……というわけだ。
教訓:第一級のものはすべて、「自己原因(それ自体が原因)」でなければならない。他の何かから由来するというのは、反論であり、価値を疑う余地になる。すべての最上の価値、すべての最高の概念――存在する物質、無条件のもの、善、真、完全――これらすべてが変化によって生じたはずはなく、したがって「自己原因」でなければならない。そして、これらは互いに異なっていてもいけないし、自己矛盾していてもいけない……。こうして彼らは、あの途方もない「神」という概念を手に入れる……。一番最後にある、最も薄っぺらで空っぽなものが、第一のもの、それ自体の原因、最も実在的なものとして据えられるのだ。
人類が、この病んだ蜘蛛の巣製造機(哲学者たち)の脳の病気を、大真面目に受け止めなければならなかったとは! ――そして、そのために人類は高い代償を支払う羽目になったのだ!
5
――最後に、それとは対照的に、私たち(……礼儀として「私たち」と言っておこう)が、誤謬(あやまり)や見せかけの問題をどれほど違った風に捉えているかを考えてみよう。昔は、変化や交代、そして変化することそのものが、見せかけの証明であり、私たちを迷わせる何かがそこにある証拠だと捉えられていた。今日では逆に、理性の偏見によって「単一性、同一性、永続性、実体、原因、事物性、存在」を認めざるを得なくなっているまさにその限界において、私たちが、いわば誤謬に巻き込まれ、誤謬へと強制されているのが見える。厳密に計算し直した結果、ここに誤謬があると確信しているからだ。
これは、あの大きな天体(太陽)の動きと同じことだ。天体の場合は誤謬が私たちの「目」を味方にしているが、こちらの場合は誤謬が私たちの「言語」を常に擁護している。言語はその成り立ちからして、最も原始的な心理学の時代に属している。もし私たちが言語の形而上学の、わかりやすく言えば「理性」の根本的な前提を意識しようとすれば、そこには粗野なフェティシズム(物神崇拝)が入り込んでくる。言語は至るところに「行為者と行為」を見る。意志をあらゆる原因だと信じ、「私(主語)」を、存在としての「私」を、実体としての「私」を信じ、その「私という実体」への信仰をすべての物へと投影する。――そうして初めて「物(事物)」という概念を作り出すのだ。
「存在」はいたるところに原因として考え込まれ、こっそり忍び込まされる。「私」という概念から派生して、初めて「存在」という概念がついてくる。始まりにあるのは、意志が作用するものだという、つまり意志は能力だという、誤謬の大きな災いだ……。今や私たちは、それが単なる言葉にすぎないことを知っている……。
それからずっと後になって、何千倍も啓発された世界の中で、理性のカテゴリー(枠組み)を扱う際の確かさ、つまり主観的な確信が、哲学たちの意識に不意に上ってきた。彼らは、これらが経験(エンピリー)から生まれたものであるはずがないと結論づけた。――だって、経験のすべてがそれらのカテゴリーと矛盾しているのだから。では、これらはどこから来たのか? ――そしてインドでもギリシャでも、同じ間違いが犯された。「私たちはかつて、もっと高い世界に暮らしていたに違いない(――本当はもっとずっと低い世界だったのに! そっちが真実だったのに!)。私たちは理性を持っているのだから、神のような存在だったに違いない!」……。
実際、これまでのところ、「存在」という誤謬ほど素朴な説得力を持ったものはなかった。それは例えばエレア派によって定式化されたものだが、私たちが話す言葉の一つひとつ、文の一つひとつがそれを味方しているのだから! ――エレア派の敵対者たちでさえ、まだその存在概念の誘惑に負けていた。デモクリトスが「原子(アトム)」を発明したときもそうだ……。言語の中にある「理性」――あぁ、なんてペテンな古株の婆さんなんだろう! 私たちはまだ文法を信じているから、神を捨てきれずにいるのではないかと私は恐れている……。
6
これほど本質的で、これほど新しい見識を4つのテーゼ(命題)に凝縮すれば、感謝してもらえるだろう。そうすれば理解しやすくなるし、反論もしやすくなる。
第一の命題:
「この」世界が見せかけだと言われてきたその根拠こそが、むしろこの世界の現実性を証明している。――これとは別の種類の現実性なんて、絶対に証明不可能だ。
第二の命題:
事物の「本当の存在」に与えられてきた特徴は、むしろ「非存在」の、つまり「無」の特徴だ。――人は「本当の世界」を、現実の世界との矛盾から作り上げた。それは単なる道徳的・視覚的な錯覚であるという意味において、まさに見せかけの世界そのものだ。
第三の命題:
この世界とは別の世界をあれこれ作り話にすることには、何の意味もない。ただし、私たちの内に生命を誹謗し、過小評価し、疑う本能が強く働いている場合は別だ。その後者の場合、私たちは「別の」「より良い」生活という幻影(ファンタズマゴリー)を使って、生に復讐しているのだ。
第四の命題:
世界を「本当の世界」と「見せかけの世界」に分けることは、キリスト教のやり方にせよ、カントのやり方にせよ(結局のところカントもずる賢いキリスト教徒なのだが)、ただのデカダンス(退廃)の暗示であり、衰退していく生命の症状にすぎない……。芸術家が現実よりも見せかけを高く評価するからといって、この命題への反論にはならない。なぜなら、ここでの「見せかけ」とは、選択され、強化され、修正された、もう一つの「現実」を意味しているからだ……。悲劇的な芸術家はペシミスト(嫌世主義者)ではない。――彼はむしろ、あらゆる疑問に満ちた恐ろしいものにさえ「イエス」と言う、ディオニュソス的な存在なのだ。
05「真の世界」がいかにしてついに寓話となったか
ある誤謬の歴史
1. 真の世界は、賢者、敬虔な人、徳のある人に到達できるものである。——彼はその世界の中に生きているし、彼自身がその世界なのだ。
(このアイデアの最も古い形。比較的賢明で、シンプルで、説得力がある。要するに「私、プラトンこそが真理である」という命題の言い換えだ。)
2. 真の世界は、今は到達できないが、賢者、敬虔な人、徳のある人(「悔い改める罪人」)には約束されている。
(アイデアの進歩。より洗練され、巧妙になり、捉えどころがなくなる。——それは女性化し、キリスト教的になる……。)
3. 真の世界は、到達できず、証明できず、約束もされないが、ただ考えられるというだけで慰めであり、義務であり、至上命令(インペラティヴ)である。
(根っこは相変わらずあの古い太陽なのだが、霧と懐疑主義に遮られている。アイデアは昇華され、青白く、北方っぽくなり、ケーニヒスベルク(カント)風になっている。)
4. 真の世界——到達できない? どっちにしろ未到達だ。そして未到達だから、知ることもできない。したがって、慰めにも、救いにも、義務にもならない。まったく知らないものが、どうして私たちを義務づけることができるだろうか?……
(薄暗い朝。理性の最初のアクビ。実証主義の雄叫び。)
5. 「真の世界」——もう何の役にも立たないし、義務にすらならないアイデア。——無用になり、余計になったアイデア。つまり、論破されたアイデアだ。こんなものは廃止してしまおう!
(明るい昼。朝食。良識(ボン・サンス)と陽気さの復活。プラトンの赤面。あらゆる自由な精神たちの、お祭り騒ぎのような大騒音。)
6. 私たちは真の世界を廃止した。あとに残ったのはどんな世界だろう? もしかして「見かけの世界」だろうか?…… いや! 真の世界と一緒に、私たちは見かけの世界も廃止してしまったのだ!
(真昼。影が最も短くなる瞬間。最も長い誤謬の終わり。人類の頂点。ツァラトゥストラはかく語りき(インキピット・ツァラトゥストラ)。)
06反自然としての道徳
1
あらゆる情熱には、それが単に破滅的で、愚かさの重みで犠牲者をどん底に引きずり下ろすだけの時期がある。そして後になって、ずっと後になって、それが精神と結びつき、みずからを「精神化」する時期がくる。昔の人は、情熱の中に潜む愚かさのせいで、情熱そのものに戦争を仕掛けた。情熱を根絶やしにしようと企んだのだ。——昔の道徳の化け物たちはみんな口を揃えて「情熱を殺さねばならない(il faut tuer les passions.)」と言っていた。その最も有名な公式が新約聖書、あの「山上の垂訓」にある。ちなみに、あそこでは物事が決して高い視点から眺められているわけではない。たとえば、そこでは性欲を応用してこう言われている。「もし、あなたの目があなたを惑わすなら、それをえぐり出しなさい」。幸いなことに、この指図通りに行動するキリスト教徒は誰もいない。愚かさや、その愚かさがもたらす不愉快な結果を防ぐためだけに、情熱や欲望を根絶やしにするなんて、今の私たちから見れば、それ自体がただの重症の愚かさにしか思えない。私たちは、歯が痛まないようにするために歯を全部抜いてしまう歯医者を、もう素晴らしいとは評価しないのだ。……
一方で、少し公平に認めれば、キリスト教が育った土壌では「情熱の精神化」なんて概念はそもそも思いつきもしなかった。知っての通り、初期の教会は「知的な人々」と戦い、逆に「心の貧しい(精神の貧しい)人々」を支持していた。そんな教会に、情熱に対する知的な戦い方を期待できるわけがない。教会は、あらゆる意味での「切り取り(切除)」によって情熱と戦う。教会の実践、その「治療法」は去勢(カストラティズム)だ。教会は「どうすれば欲望を精神化し、美しくし、神聖なものにできるか?」なんて絶対に問いかけない。——教会はいつの時代も、規律の重点を(肉欲、プライド、支配欲、強欲、復讐心の)根絶に置いてきた。——だが、情熱を根本から攻撃することは、生命を根本から攻撃することにほかならない。教会のやり方は生命に敵対しているのだ。
2
これと同じ手段、つまり去勢や根絶というやり方は、欲望をコントロールするだけの意志の強さがなく、あまりに退化(デジェネレート)している者たちが、欲望と戦うときに本能的に選ぶものだ。比喩的に言えば(そして比喩でなく言っても)、トラピスト修道院のような極端な隔離を必要とする性質の人々、つまり、自分と情熱の間に決定的な敵対宣言や深い溝を作らなければならないような人々である。過激な手段がどうしても不可欠なのは、退化した人間だけだ。意志の弱さ、もっとはっきり言えば、刺激に対して反応を返さずにはいられない無能力さこそが、それ自体もうひとつの退化の形なのだ。肉欲に対する過激な敵対、宿命的な敵意は、じっくり考えるべき症状である。私たちは、それほどまでに極端な人間の全体的なコンディションについて、色々と疑ってみる権利がある。——ちなみに、そういう性質の人間が、もはやその過激な治療法(自分の中の「悪魔」と縁を切ること)を実行するだけの強さすら失ったとき、あの敵意や憎しみはピークに達する。聖職者や哲学者、ついでに芸術家も含めた全歴史を見渡してみるといい。五感(エロス)に対して最も毒々しい言葉を吐いたのは、性不能者でもなければ禁欲主義者でもない。本当に禁欲主義者である必要があったのに、どうしても禁欲主義者になれなかった、そんな「なれの果て」の人々なのだ。
3
肉欲を精神化したものを「愛」と呼ぶ。これはキリスト教に対する偉大な勝利だ。もうひとつの勝利は、私たちの「敵意の精神化」である。それは、敵を持つことの価値を心の底から理解することにある。要するに、昔の人がやっていたことや結論づけていたことと、真逆のことをおこなうのだ。教会はいつの時代も敵の破滅を望んでいた。だが、私たちイモラリスト(背徳者)や反キリストは、教会が存続することに自分たちの利益を見出している。…… 政治の世界でも、敵意はいまやより精神的になり、ずっと賢く、ずっと慎重で、ずっと手加減するようになった。今やほぼすべての政党が、相手の政党が体力を失わないことこそが、自分たちの自己保存の利益になると理解している。大物政治(国際政治)でも同じことだ。特に新しい創出物、たとえば新しい帝国などは、味方よりも敵を必要とする。対立があって初めて自分を必要不可欠だと感じるし、対立の中で初めて本当に不可欠な存在になるのだ。……
私たちが「内なる敵」に対するときも、まったく同じである。そこでも私たちは敵意を精神化し、その価値を理解した。人は、対立(矛盾)に満ちあふれているという代償を払って初めてクリエイティブになれる。魂がダラけず、平和を求めないという前提があって初めて、人は若くいられるのだ。…… 「魂の平和」という昔ながらの願望、あのキリスト教的なお望みほど、今の私たちに縁遠いものはない。道徳という名の大人しい雌牛や、後ろめたさのない(良心の呵責のない)肥え太った幸福ほど、私たちが羨ましいと思わないものはない。戦争を放棄することは、大いなる人生を放棄することだ。……
もちろん、多くの場合「魂の平和」なんてただの勘違いにすぎない。もっと正直な名前があるのに、自分をそう呼ぶ勇気がないだけだ。回りくどい表現や偏見を抜きにして、いくつか例を挙げてみよう。
「魂の平和」とは、たとえば、豊かな動物的生命力(アニマリティ)が道徳的(または宗教的)な領域へと穏やかににじみ出たものかもしれない。
あるいは、疲労の始まり、夕暮れ(どんな種類であれ、人生の夕暮れ)が落とす最初の影かもしれない。
あるいは、空気が湿っていて、南風が近づいているというサインかもしれない。
あるいは、本人も気づかないうちの、幸せな消化に対する感謝(ときとして「人類愛」なんて呼ばれるもの)かもしれない。
あるいは、すべてのものが新鮮に感じられ、じっと待っている回復期の病人の静けさかもしれない。
あるいは、自分を支配している強烈な情熱が満たされた後に訪れる状態、めったにない満腹感による心地よさかもしれない。
あるいは、私たちの意志、欲望、悪徳が年齢とともに衰えた姿かもしれない。
あるいは、怠惰が虚栄心にそそのかされて、道徳的にドレスアップした姿かもしれない。
あるいは、不確実さに長いあいだ焦らされ拷問された後に、たとえ恐ろしいものであっても、ある確実性にたどり着いたときの状態かもしれない。
あるいは、行動、創造、活動、意志のただ中にある成熟とスキルの証明、静かな呼吸、到達された「意志の自由」かもしれない。
『偶像の黄昏』——どうだろう? もしかしたらこれも、ただの一種の「魂の平和」にすぎないのかもしれない……。
4
——私はひとつの原則を公式にまとめよう。道徳におけるあらゆるナチュラリズム(自然主義)、つまりあらゆる健全な道徳は、生命の本能によって支配されている。——生命のある命令が、特定の「すべし」「すべからず」という規範によって実行され、生命の行く手を阻む障害や敵意がそれによって片付けられる。これに対して、反自然的な道徳、つまりこれまでに教えられ、崇められ、説教されてきたほぼすべての道徳は、逆に生命の本能そのものに牙をむく。——それは、ときには隠れて、ときには大声で図々しく、これらの本能を非難するのだ。それが「神は心を見る」と言うとき、生命のいちばん根底にある欲求にも、いちばん最高峰にある欲求にも「ノー」を突きつけ、神を生命の敵に仕立て上げている。…… 神が喜ぶ聖人とは、理想的な去勢者(カストラート)のことだ。…… 「神の国」が始まるところで、生命は終わりを迎える。……
5
キリスト教道徳の中でほとんど神聖侵犯のようになっている「生命への反逆」の罪深さを理解したなら、幸いなことに、もうひとつのことも理解できる。それは、そんな反逆がいかに無駄で、見せかけで、不条理で、嘘っぱちかということだ。生きている者が生命を非難したところで、結局それは特定の生き方の症状(サイン)にすぎない。そこに正しいか間違っているかという問題は、そもそも発生すらしていない。生命の価値という問題にそもそも触れるためには、人は生命の外側に立ち、同時に、生命を生きた一人、多くの人、あるいはすべての人と同じくらい生命を熟知していなければならない。これだけでも、その問題が私たちには到底手が届かないものだと理解するには十分な理由だ。私たちが価値について語るとき、私たちは生命のインスピレーション、生命のフィルター(視点)を通して語っている。生命そのものが私たちに価値を設定するよう強制しているのであり、私たちが価値を設定するとき、生命そのものが私たちを通じて価値評価しているのだ。……
ここから次の結論が導かれる。神を生命の対立概念、および生命への非難として捉えるあの反自然的な道徳でさえ、やはり生命によるひとつの価値判断にすぎない。——では、どんな生命の? どんな種類の生き方の? ——だが、その答えはもう言ったはずだ。衰退していく、弱りきった、疲れた、死刑を宣告された生命の価値判断である。これまで理解されてきた通りの道徳——最近ではショーペンハウアーによって「生きんとする意志の否定」として定式化されたもの——は、デカダンス(退廃)の本能そのものが、自分自身を至上命令(インペラティヴ)にしたものだ。それは「滅びよ」と言っている。それは死刑囚たちの判決なのだ。
6
最後に、そもそも「人間はこうあるべきだ!」と言うのがどれほどナイーブなことか考えてみよう。現実は、うっとりするほど豊かなタイプ(人間像)の多様性、贅沢で気まぐれなフォルムの戯れと変化を私たちに見せつけている。それなのに、どこかの哀れな辻立ちの道徳家が「いや! 人間は違った風にあるべきだ」なんて言うのだ。…… このケチで偽善的な男は、自分がどうあるべきかを知っているつもりで、壁に自分の絵を描いて「この人を見よ(エッケ・ホモ)!」と言っている。…… だが、道徳家がただ特定の個人に向かって「お前はこうあるべきだ!」と言うときでさえ、滑稽極まりない。個人は、前から見ても後ろから見ても運命(ファトゥム)の一片であり、これから起こること、存在するすべてのものにとって、ひとつの法則であり、ひとつの必然性なのだ。その個人に向かって「変われ」と言うのは、すべてが変わることを、それこそ過去に遡ってまで変わることを要求するようなものだ。……
そして実際、筋の通った道徳家たちもいた。彼らは人間を違ったものに、つまり「徳のあるもの」にしたがり、自分たちのイメージ通りに、つまり「偽善者(ムッカー)」にしたがった。そのために彼らは世界を否定したのだ! なんという誇大妄想! なんという図々しい謙虚さだろう!…… 道徳が、生命の都合や配慮や意図からではなく、それ自体として非難するものである限り、それは同情の余地のない特有の誤謬であり、言い表せないほどの害悪を流してきたデカダンスの特異体質(アイディsyncrasy)である!……
私たち他者、つまり私たちイモラリストは、逆に、あらゆる種類の理解、把握、肯定のために心を広く開いてきた。私たちは簡単に否定はしない。肯定者(イエスと言う者)であることに自分の誇りを見出している。聖職者の神聖な狂気や、聖職者の中の病んだ理性が拒絶するようなものでさえ、すべてを必要とし利用し尽くす「生命の法則におけるエコノミー(管理・節約)」が、私たちの目にはますます明らかになってきている。あの忌むべき偽善者や聖職者、徳のある人間の種類からさえ、自分の利益を引き出すエコノミー。——一体どんな利益か? ——ほかでもない、私たちイモラリスト自身が、ここにいることこそがその答えなのだ……。
07四つの大きな誤謬
1
原因と結果を混同する誤謬。 —— 結果を原因と混同することほど危険な誤謬はない。私はこれを「理性の本当の堕落」と呼んでいる。それにもかかわらず、この誤謬は人類の最も古く、また最も新しい習慣に属している。それは私たちの間で神聖化され、「宗教」や「道徳」という名前さえついている。宗教や道徳が定式化するすべての命題には、この誤謬が含まれている。聖職者や道徳の立法者たちこそが、あの理性の堕落の張本人なのだ。——ひとつ例を挙げよう。高名なコルナロの本を誰もが知っている。その中で彼は、長生きで幸せな(そして徳のある)人生を送るためのレシピとして、自分の少食(ダイエット)を勧めている。これほど広く読まれた本は滅多にないし、今でもイギリスでは毎年何万部も印刷されている。私は、これほど害を流し、これほど多くの寿命を縮めた本は(聖書は当然別格として)この善意に満ちた奇書をおいて他にないと確信している。理由は、結果と原因の混同だ。この実直なイタリア人は、自分の少食が長寿の「原因」だと思い込んでいた。しかし、長寿のための前提条件、つまり「代謝が異常に遅いこと」「消費が少ないこと」こそが、彼の少食の「原因」だったのだ。彼には、少なく食べるか多く食べるかを選ぶ自由などなかった。彼の節制は「自由意志」によるものではなく、多く食べると病気になっただけなのだ。だが、鯉(コイ)ではない人間なら、少なく食べるのが良いどころか、しっかり食べる必要がある。神経のエネルギーを猛烈に消費する現代の学者なら、コルナロの食事制限をやったら破滅してしまうだろう。経験者は語る(クレーデ・エクスペルト)、だ。
2
あらゆる宗教や道徳の根底にある最も一般的な公式は、こうだ。「これこれの事をせよ、これこれの事をやめよ —— そうすればお前は幸せになる! さもないと……」 あらゆる道徳、あらゆる宗教はこの至上命令(インペラティヴ)である。——私はこれを、理性の「大いなる原罪」、不滅の不条理と呼ぶ。私の口にかかれば、この公式は真逆にひっくり返る。——私の「すべての価値の転換」の最初の例だ。うまく育った人間、つまり「幸福な人」は、特定の行動をせざるを得ないし、他の行動を本能的に避ける。彼は、自分が生理学的に体現している秩序を、人間や物事との関係に持ち込むのだ。公式化すれば、彼の美徳は彼の幸福の結果である。…… 長寿やたくさんの子孫は美徳のご褒美ではない。むしろ美徳そのものが、あの代謝の減速なのであり、それが結果として長寿やたくさんの子孫、要するにコルナロ的な状態をもたらすのだ。——教会と道徳は言う。「ある血統や民族は、悪徳と贅沢によって滅びる」と。だが、私の修復された理性は言う。ある民族が滅びるとき、生理学的に退化するとき、そこから悪徳と贅沢(つまり、あらゆる消耗した性質の人間が知っている、より強くより頻繁な刺激への欲求)が結果として生じるのだ、と。この若者は若くして青白く萎びていく。彼の友人たちは「これこれの病気のせいだ」と言う。だが私は言う。彼が病気になったこと、病気に抵抗できなかったこと自体が、すでに貧弱な生命、遺伝的な消耗の結果なのだ、と。新聞の読者は言う。「この政党はこんな失敗で自滅する」と。だが、私の高度な政治学は言う。そんな失敗をする政党はもう終わりなのだ —— 本能の確かさを失ってしまっている、と。あらゆる意味でのあらゆる失敗は、本能の退行、意志の解体の結果である。これによって「悪」を定義することすらできる。あらゆる善きものは本能であり、したがって、軽やかで、必然的で、自由だ。苦労を伴うのはお断り(反論)である。神は典型的に英雄とは区別される(私の言葉で言えば、足取りの軽さこそが神性の第一の属性である)。
3
偽りの因果関係という誤謬。 —— 人はいつの時代も、何が「原因」であるかを知っていると信じ込んできた。だが、私たちはその知識、正確に言えば、ここで知っているという「信仰」をどこから持ってきたのだろう? それは、有名な「内なる事実」という領域からだ。その領域の事実で、これまで本当に事実だと証明されたものは一つもない。私たちは、意志(欲求)の行為において、自分自身が原因であると信じていた。そこでは少なくとも、因果関係を現行犯で捕まえていると思い込んでいた。同じように、ある行動に先立つもの(動機)はすべて意識の中に探すべきであり、探せば見つかると誰もが疑わなかった。——そうでなければ、その行動に対して自由でもなければ、責任も持てないはずだからだ。最後に、思想(考え)が引き起こされるということ、エゴ(自我)がその思想を引き起こすということを、一体誰が否定しただろうか?……
因果関係を保証してくれると思われていたこれら3つの「内なる事実」のうち、最初で最も説得力があったのが「原因としての意志」だった。「原因としての意識(精神)」という概念や、さらに後になってできた「原因としての自我(主権者)」という概念は、意志による因果関係が経験則(エンピリカ)として確定した後に、ただ真似して作られた生み落としにすぎない。……
だがその間、私たちはもっとよく考えるようになった。今や私たちは、そんな話は一言も信じていない。「内なる世界」はまやかしと狐火で満ちており、意志もその一つだ。意志はもう何も動かさないし、したがって何も説明しない。——それはただプロセスに付き添うだけで、欠けていることすらある。いわゆる「動機」というのも別の誤謬だ。それは意識の単なる表面的な現象、行動のおまけにすぎず、行動に先立つものを表現するどころか、むしろ覆い隠してしまうものだ。そして自我(エゴ)に至っては! それは寓話になり、フィクションになり、言葉遊びになった。それは考えることも、感じることも、欲することも、完全にやめてしまったのだ!……
ここから何が言えるか? 精神的な原因なんてものは一切存在しない! そう思われていた経験則はすべてお釈迦になった(地獄に落ちた)! そういうことだ! —— そして私たちは、あの「経験則」を都合よく悪用し、それに基づいて世界を「原因の世界」「意志の世界」「精神の世界」として作り上げていた。最も古く、最も長く続いた心理学がここで働いていたのであり、それはこれ以外のことは何もしてこなかった。すべての出来事は彼女(心理学)にとって「おこない(行為)」であり、すべてのおこないは意志の結果だった。世界は彼女にとって「行為者たちの多様性」となり、あらゆる出来事の背後に一人の行為者(「主権者」)が潜り込ませられた。人間は、自分が最も固く信じていた3つの「内なる事実」、すなわち意志、精神、自我を自分の中から外へと投影したのだ。——彼はまず「存在(あること)」という概念を「自我」の概念から引き出し、自分の姿、つまり原因としての自我の概念に合わせて「物事」が存在していると設定した。その後、人間が物事の中に、自分が詰め込んだものばかりを再発見することになったとしても、何の不思議があるだろう? ——物自体、もう一度言うが、「物(物事)」という概念は、原因としての自我に対する信仰の単なる反映にすぎない。…… そして、メカニズム派や物理学者の皆さん、あなた方の「原子」にさえ、どれほどの誤謬、どれほど未発達な心理学がまだ居座っていることか! ——形而上学者の恐るべき恥部(ホレンドゥム・プデンドゥム)である「物自体」については、言うまでもない! 原因としての精神という誤謬を、現実と混同したのだ! そしてそれを現実の尺度にしたのだ! そしてそれを「神」と呼んだのだ!
4
想像上の原因という誤謬。 —— 夢の例から始めよう。たとえば、遠くの大砲の音という特定の感覚に対して、後から原因が潜り込まされる(しばしば、夢を見ている本人が主人公であるような、ちょっとした小説が丸ごと一つ作られる)。その間、感覚は一種の残響として持続している。それは言わば、原因を探そうとする本能(原因衝動)がそれを前景に引き出すのを待っているのだ。——今やそれは単なる偶然ではなく、「意味」として現れる。大砲の音は因果関係を持って現れるが、それは時間の流れが見かけ上ひっくり返った形をとる。後から来るもの、つまり理由付けが最初に体験され、稲妻のように通り過ぎる何百もの詳細なディテールを伴って、その後に大砲の音が続く……。一体何が起こったのか? ある体調が生み出したイメージ(観念)が、その体調の「原因」として誤解されたのだ。——
実は、私たちは目が覚めているときも全く同じことをしている。私たちの全体的な感覚(不調や快調)の大部分——臓器の相互作用におけるあらゆる種類の抑制、圧迫、緊張、破裂、特に交感神経の状態など——は、私たちの原因衝動を刺激する。私たちは、自分がなぜこういう状態にあるのか、なぜ気分が悪いのか、あるいは良いのか、その理由(グラウンド)を知りたがるのだ。単に自分がそういう状態にあるという事実を認めるだけでは、私たちは決して満足しない。私たちは、その事実に一種の理由付けを与えて初めて、その事実を受け入れ(意識し)始めるのだ。——こういう場合に私たちの知らないうちに働き出す「記憶」は、過去の同じような状態と、そこにへばりついていた因果的解釈を呼び出す。——その過去の因果関係が本当に正しいかどうかは関係なく、だ。もちろん、そのイメージや、意識に随伴するプロセスこそが原因であったという「信仰」も、記憶によって一緒に呼び出される。こうして、特定の原因解釈への慣れ(習慣)が生まれ、それが本当の原因探究を妨げ、それどころか締め出してしまう。
5
これに対する心理学的説明。 —— 未知のものを既知のものへと還元することは、人を楽にし、落ち着かせ、満足させ、おまけに権力感(コントロールできている感覚)を与える。未知のものには危険、不安、心配が伴う。——だから最初の本能は、これらの苦痛な状態を取り除くことに向かう。第一原則:どんな説明でも、ないよりはマシ。要するに、心を圧迫しているイメージを追い払いたいだけなので、それを取り除く手段についてはあまり厳密に吟味しない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初のイメージが、あまりに心地よいため、人はそれを「真理である」と思い込む。真理の基準としての快感(「力」)の証明だ。——
つまり、原因衝動は恐怖心によって条件づけられ、刺激されているのだ。可能であれば「なぜ?」という問いは、原因そのもののために原因を突き止めようとするのではなく、むしろ、ある種の原因——心を落ち着かせ、解放し、楽にしてくれる原因——を求めている。すでに知っていること、体験したこと、記憶に刻まれていることを原因として当てはめるのは、この要求の最初の結果である。新しいもの、未体験のもの、異質なものは原因から排除される。——したがって、単にありとあらゆる説明が原因として探されるのではなく、選り好みされた特定の説明、つまり、異質なもの・新しいもの・未体験なものという感覚を最も素早く、最も頻繁に追い払ってくれた説明——最もありふれた説明——が好まれる。——結果として、ある特定の原因設定がますます優勢になり、システムへと集中し、最終的には支配的なものとして現れる。つまり、他の原因や説明を単純に締め出してしまうのだ。——銀行家ならすぐに「ビジネス」のことを考え、キリスト教徒なら「罪」のことを考え、少女なら「恋」のことを考える。
6
道徳と宗教の全領域は、この「想像上の原因」という概念の下に属している。 ——
「不快な全体感覚」の説明。
それらは、私たちに敵対する存在(悪霊。最も有名なケースは、ヒステリー患者を魔女と誤解したこと)によって引き起こされている。
それらは、承認できない行動(生理学的な不快感の背後に「罪」や「罪深さ」の感覚を潜り込ませる。人間は自分に不満を持つ理由をいつでも見つけるものだ)によって引き起こされている。
それらは、罰として、私たちがすべきではなかったこと、あるべきではなかったことへの代償として引き起こされている(ショーペンハウアーによって、ずうずうしくも一つの命題へと一般化された。そこでは道徳が、その正体であるところの、本物の生命の毒殺魔・中傷魔として現れている。『意志と表象としての世界』第2巻666頁:「身体的であれ精神的であれ、あらゆる大きな苦痛は、私たちがそれに値するということを物語っている。なぜなら、もし私たちがそれに値しなければ、そんな苦痛が私たちに及ぶはずがないからだ」)。
それらは、軽率で、悪い結果に終わった行動の結末として引き起こされている(情念や五感を原因、つまり「悪者」として扱い、生理学的な窮乏を、別の窮乏の手を借りて「自業自得」として解釈する)。
「快適な全体感覚」の説明。
それらは、神への信頼によって引き起こされている。
それらは、善い行動の意識(いわゆる「清い良心」という生理学的状態。これはときとして、幸せな消化と見分けがつかないほどよく似ている)によって引き起こされている。
それらは、事業の幸福な成功によって引き起こされている(——ナイーブな誤謬。事業の幸福な成功は、心気症の人間やパスカルのような人間には、心地よい全体感覚などこれっぽっちももたらさない)。
それらは、信仰、愛、希望 ——キリスト教の徳によって引き起こされている。
本当のところ、これらすべての「原因と思われているもの」は、結果としての状態であり、言わば快・不快の感情を偽りの言語へと翻訳したものにすぎない。人が希望を持てる状態にあるのは、生理学的な基本感覚が再び強く豊かになったからだ。人が神を信頼するのは、充実感と強さの感覚が人に安らぎを与えるからだ。——道徳と宗教は、完全に「誤謬の心理学」に属している。そこではケースごとに原因と結果が混同されているか、あるいは真理と「真理だと信じられたものの効果」が混同されているか、あるいは意識の状態とその状態をもたらした因果関係が混同されている。
7
自由意志の誤謬。 —— 今の私たちは「自由意志」という概念に対して、もう一滴の同情も持っていない。それが何であるかを、私たちは嫌というほどよく知っている。——人類を自分たちの意味で「責任がある」ものにし、つまり自分たちに依存させるために、神学者が編み出した最も胡散臭い手品だ。…… 私はここに、あらゆる「責任を負わせること」の心理学を提示しよう。——
およそ責任(犯人)が探されるところでは、どこでも「罰したい」「裁きたい」という本能が働いているものだ。もしある人の「こうであること」が、意志や意図や責任ある行為へと還元されるなら、生成(物事の移り変わり)はその無垢さを剥ぎ取られてしまう。意志の教えというのは、本質的に罰の目的、つまり「有罪にしたい」という欲求のために発明されたものだ。古い心理学、あの意志の心理学は、その創出者である古い共同体のトップに立つ聖職者たちが、自分たちに罰を科す権利——あるいは神にその権利——を作り出そうとしたことを前提にしている。…… 人間は、裁かれ、罰せられ、有罪になり得るために「自由」であると考えられたのだ。——したがって、あらゆる行動は意志によるものと考えられ、あらゆる行動の起源は意識の中にあると考えられなければならなかった(——これによって、心理学における最も根本的な偽造が、心理学そのものの原則にされてしまったのだ……)。
今日、私たちがそれとは逆の運動に入り、特に私たちイモラリストが、罪の概念と罰の概念を世界から再び叩き出し、心理学、歴史、自然、社会制度や制裁からそれらを洗い流そうと全力を尽くしている中で、私たちの目にとって神学者ほど過激な敵はいない。彼らは「道徳的世界秩序」という概念を使って、罰と罪によって生成の無垢さを汚染し続けている。キリスト教とは、処刑人の形而上学である……。
8
私たちの教え(学説)だけが、一体何であり得るだろうか? —— それは、人間にその性質を与える者は誰もいないということだ。神も、社会も、彼の両親や先祖も、彼自身も(——ここで最後に拒絶した「自分自身が性質を与える」というナンセンスな観念は、「叡智的自由」としてカントによって、もしかしたらすでにプラトンによっても教えられていた)。彼がそもそもそこに存在すること、彼がこれこれの性質であること、彼がこれらの状況や環境の中にいることに対して、誰も責任を負ってはいない。彼の本質の宿命(ファタリティ)は、これまであったもの、これからあるものの宿命から切り離すことはできない。彼は自分自身の意図や意志や目的の結果ではないし、彼を使って「人間の理想」や「幸福の理想」や「道徳性の理想」に到達しようとする実験が行われているわけでもない。——彼の本質をどこか特定の目的に向かって押し付けようとするのは不条理だ。私たちが「目的」という概念を発明したのであって、現実の中には目的など欠けているのだ。……
人は必然であり、運命の一片であり、全体に属しており、全体の中にいる。——私たちの存在を裁き、測り、比較し、非難できるものは、何一つ存在しない。なぜなら、それは全体を裁き、測り、比較し、非難することを意味するからだ。…… だが、全体の他に何も存在しないのだ! —— もはや誰も責任を問われないということ、存在のあり方が「第一原因(カウザ・プリマ)」へと還元されてはならないこと、世界は感覚器官(センソリウム)としても「精神」としても一つの統一ではないこと、これこそが初めて大いなる解放なのであり、これによって初めて生成の無垢さが再び修復されるのだ……。
「神」という概念は、これまで存在に対する最大の反論だった。…… 私たちは神を否定する、私たちは神における責任を否定する。これによって初めて、私たちは世界を救済するのだ。
08人類の「改善者」たち
1
哲学者たるもの、善悪の彼岸に立ち、道徳的判断なんていう錯覚(イリュージョン)を見下ろさなければならない――私のこの要求はよく知られているだろう。この要求は、私が初めてハッキリと言葉にした、ある確信からきている。それは、「道徳的な事実なんてものは、この世に一つも存在しない」ということだ。
道徳的な判断は、宗教的な判断と同じで、実在しないものを実在すると信じ込んでいる。道徳なんてものは、ある現象に対する単なる解釈にすぎない。もっとはっきり言えば、たんなる「誤解(こじつけ)」だ。
道徳的判断は、宗教と同じように、何が現実で何が妄想かという区別すらつかないような、未開で無知な段階の産物なのだ。そうした段階では、現代の私たちが「ただの思い込み」と呼ぶようなものが「真実」とされてしまう。だから、道徳的な言葉をそのまま真に受けてはいけない。そんなことをすれば、ただ矛盾に陥るだけだ。
けれど、道徳は「記号(サイン)」としてはめちゃくちゃ価値がある。ものごとを深く知る者から見れば、自分自身を客観的に「理解」する知性のなかった古い文化や人間の内面の、ものすごく貴重な現実を教えてくれるからだ。道徳は単なる合図の言葉であり、ただの「症状(シンプトム)」にすぎない。だから、その背後に何があるかをあらかじめ分かっていないと、道徳を分析しても何の役にも立たないのだ。
2
とりあえず、手始めにこんな例を挙げてみよう。
いつの時代も、人は人間を「改良」したがってきた。これこそが、何よりも「道徳」と呼ばれてきたものだ。しかし、この同じ言葉の裏には、まったく正反対の狙いが隠されている。人間という野獣を「調教(飼い慣らし)」することと、特定のタイプの人間を「育成(ブリーディング)」すること。このどちらもが「改良」と呼ばれてきたのだ。
この動物学的なアプローチこそが現実を表しているのだが、典型的な「改良者」である聖職者たちは、この現実を何一つ分かっていないし、分かりたくもないのだ。
そもそも、動物を調教することを「改良する」と呼ぶなんて、現代の私たちの耳には冗談にしか聞こえない。動物園で何が行われているか知っている人なら、檻の中の猛獣が「改良」されているなんて絶対に思わないはずだ。あいつらは弱らされ、危険じゃなくされているだけだ。恐怖というウツな感情、痛み、傷、飢えによって、病んだケモノに変えられているだけなのだ。
聖職者に「改良」された、調教済みの人間だってこれと全く同じだ。
初期の中世では、教会は文字通り「動物園」だった。そこら中で、もっとも美しい「金髪の野獣(ブロンドの野獣)」たちの狩りが行われ、気高きゲルマン人たちが「改良」された。
だが、そうやって「改良」され、修道院に誘い込まれたゲルマン人は、その後どうなってしまったか?
人間のパロディ、奇形児のようになってしまった。彼は「罪人」にされ、檻の中に閉じ込められ、恐ろしい宗教概念の数々に縛り付けられた。そして、病んで惨めになり、自分自身を憎み、生きるエネルギーすべてを敵視し、強くて幸せなものすべてを疑いの目で見るようになった。一言で言えば「キリスト教徒」の出来上がりだ。
生理学的に言えば、獰猛な野獣と戦うとき、そいつを弱らせる唯一の方法は「病気にさせること」なのだ。教会はこれをよく分かっていた。彼らは人間を台無しにし、弱らせた。それなのに、人間を「良くした(改良した)」と言い張ったのだ。
3
では、いわゆる道徳のもう一つのケース、つまり特定の「人種や種類を育成する」ケースを見てみよう。
その一番壮大な例が、インドの道徳、つまり宗教として公認された『マヌ法典』だ。ここでは、同時に4つの人種(カースト)を育て上げるというミッションが課されている。すなわち、僧侶(クシャトリヤ)、戦士、商人・農民、そして最後に、召使いの人種であるシュードラだ。
見ての通り、ここではもう野獣の調教師のような真似はしていない。これほど緻密な育成計画を立てるだけでも、キリスト教より何百倍も穏やかで知的な人間が前提になっている。キリスト教の「病室と牢獄」みたいな息苦しい空気から、このもっと健康的で、高く、広々とした世界に入ると、本当にホッとする。マヌ法典に比べたら、「新約聖書」なんてなんと貧相で、嫌な臭いがすることか!
しかし、このシステムもまた、恐ろしい牙を持つ必要があった。ただし今度は猛獣相手ではなく、その反対の存在、つまり「計画外の人間」「雑種の人間」であるチャンダーラ(不可触民)が相手だった。そして、このチャンダーラを危険でなくし、弱らせるために、やっぱり「病気にする」という手段しか使えなかった。これは圧倒的な「多数派」との戦いだったのだ。
おそらく、私たちの道徳的な感情にこれほど反するものはないだろう。それがインドの道徳の「自己防衛ルール」だ。
たとえば、第三の勅令(『アヴァダーナ・シャーストラ』第1章)の「汚れた野菜について」では、チャンダーラに許された食べ物はニンニクとタマネギだけと定められている。聖典が彼らに穀物、実を結ぶ果物、さらには(きれいな)水や火を与えることを禁じているからだ。
同じ勅令では、彼らが必要とする水は、川や泉、池から取ってはならず、湿地への入り口や、動物の足跡に溜まった泥水からしか取ってはならないとされている。さらに、服を洗うことも自分自身の体を洗うことも禁止された。恵んでもらった水は、ただ喉を潤すためにしか使ってはいけないからだ。最後に、シュードラの女性がチャンダーラの妊婦の出産を助けることも禁止され、さらにチャンダーラの女性同士で助け合うことさえ禁じられた。
こんな「衛生対策(という名の嫌がらせ)」の効果はてきめんだった。恐ろしい伝染病や、おぞましい性病が蔓延したのだ。そして、これに対抗して「メスの掟」が作られ、男の赤ん坊には割礼を、女の赤ん坊には小陰唇の切除が義務づけられた。
マヌ自身はこう語っている。
「チャンダーラは姦淫、近親相姦、そして罪悪から生まれた果実である(これこそ、徹底した『交配・育成』の考え方から出てくる必然的な結論だ)。彼らは死体からはぎ取ったボロ布だけを衣服とし、割れた陶器だけを食器とし、古い鉄クズだけを装飾品とし、悪霊だけを信仰の対象とせねばならない。彼らは安住の地を持たず、あちこちを彷徨わなければならない。彼らが文字を左から右へ書くこと、また右手で字を書くことは禁止する。右手を使い、左から右へ書く権利は、徳のある者たち、つまり高貴な人種だけに許された特権である」と。
4
これらの決まりは、非常に多くのことを教えてくれる。ここには、もっとも純粋で、もっとも初期の「アーリア的ヒューマニズム」がある。私たちは、この「純血」という概念が、どれほど冷酷で、無害とは程遠いものなのかを知ることになる。
その一方で、この「ヒューマニズム」に対する憎悪、つまりチャンダーラ(虐げられた者)としての憎悪を歴史に刻みつけ、それを宗教に、さらには天才的な思想にまで高めたのが、どこの民族だったのかもハッキリ見えてくる。
この視点から見ると、新約聖書の「福音書」は第一級の超重要ドキュメントだし、それ以上に『エノク書』がそうだ。
キリスト教は、ユダヤというルーツから生まれ、その土壌に育った植物としてしか理解できない。これは、人種の育成、血統、特権といったあらゆる「エリート主義の道徳」に対する、壮大なアンチテーゼ(反対運動)なのだ。
これこそが、まさに極上の「アンチ・アーリア宗教」である。キリスト教とは、すべてのアーリア的価値観をひっくり返し、チャンダーラ(底辺)の価値観を勝利させたものだ。貧しい者、身分の低い者に福音を説き、踏みにじられた者、惨めな者、でき損ないの者、恵まれない者たち全員が「特権的な人種」に対して起こした大反乱。それこそが、キリスト教なのだ。「愛の宗教」という仮面をかぶった、チャンダーラたちの永遠の復讐劇なのだ。
5
血統を育てる道徳(育成の道徳)も、野獣を飼い慣らす道徳(調教の道徳)も、目的を達成するための手段の汚さにおいては、まったくどっこいどっこい、お互い様だ。
ここで私たちは、最大のルールを突きつけることができる。それは、「道徳を作るためには、どうしてもその真逆のことをやろうとする絶対的な意志が必要だ」ということだ。
これこそが、私が一番長く追い求めてきた、不気味で巨大なテーマだ。すなわち、人類の「改良者」たちの心理学である。
このテーマに切り込む最初のヒントをくれたのは、いわゆる「神聖な嘘(ピア・フラウス)」という、小さくて一見どうでもいいような事実だった。この「神聖な嘘」こそ、人類を「改良」してきたあらゆる哲学者や聖職者たちの、お決まりの遺産(お家芸)なのだ。
マヌも、プラトンも、孔子も、ユダヤやキリスト教の指導者たちも、自分たちが「嘘をつく権利」を持っていることを、ただの一度も疑わなかった。それどころか、もっととんでもない権利すら持っていると信じて疑わなかった。
ズバリ公式化して言おう。これまで人類を道徳的にするために使われてきたすべての手段は、根底から完全に「非道徳的」だったのだ。
09ドイツ人に足りないもの
1
今のドイツ人は、ただ知性があるだけじゃ満足できない。知性があるぞってポーズを取ったり、知性をひけらかしたりしなきゃ気が済まないんだ。
私はドイツ人をよく知っているつもりだし、彼らにいくつかの耳の痛い真実を言ってやる資格もあるだろう。今の新しいドイツは、遺伝や教育で培われた「有能さ」をどっさり持っている。だから、これまでに貯め込んだエネルギーの遺産を、しばらくの間なら贅沢に使い果たすことも許されるだろう。だけど、いまドイツを支配しているのは、高い文化でもなければ、洗練された趣味でもない。本能の気高さなんてものはなおさらだ。ただ、ヨーロッパの他のどの国よりも「男らしい美徳」があるってだけさ。たくさんの前向きな勇気、自己への敬意、人付き合いの確かさ、お互いの義務を果たす真面目さ、勤勉さ、忍耐力――そして、ブレーキよりむしろ拍車が必要なほどの、受け継がれた生真面目さだ。付け加えるなら、ここではまだ服従が恥辱にならずに成り立っている……。それに、誰も敵を軽蔑したりしない。
見ての通り、私はドイツ人を正当に評価したいと思っているし、その気持ちを曲げたくはない。だからこそ、彼らに文句も言わなきゃならないんだ。権力を手に入れるには高い代償が伴う。権力は人をバカにするんだ……。ドイツ人はかつて「思想家の民族」と呼ばれていた。彼らは今、そもそも考えるなんてことをしているだろうか? 今のドイツ人は知性に退屈し、知性を疑っている。政治が、本当に知的な事柄への真剣さをすべて飲み込んでしまっているんだ。「世界に冠たるドイツ」だって? 恐ろしいことに、これこそがドイツ哲学の終わりだったのさ。「ドイツ人の哲学者っていますか? ドイツ人の詩人は? 良いドイツの本はありますか?」と私は外国で聞かれる。私は赤面するが、絶望的な状況でも発揮されるいつもの居直りの勇気を持って、こう答えるんだ。「ああ、ビスマルクがいる!」とね。
今どきみんながどんな本を読んでいるか、正直に明かすことさえできるだろうか? ……まったく、呪わしいほどの凡庸さの本能だよ!
2
ドイツの知性が本来どうあるべきだったかについて、物思いに沈んだことがない人間なんているだろうか? だが、この民族はここ1000年ほど、自ら進んでバカになり続けてきた。ヨーロッパの二大麻薬である「アルコール」と「キリスト教」が、これほど悪質に乱用された場所は他にないよ。最近では、それに加えて3つ目の麻薬まで登場した。これだけで知性の繊細で大胆な柔軟性を完全に息の根を止められる代物、そう、音楽だ。私たちの、あの息苦しくて人を窒息させるドイツ音楽さ。
ドイツのインテリには、どれほど不機嫌な重苦しさ、麻痺、湿っぽさ、寝巻き姿、そしてどれほど多くのビールが染み付いていることか! 知的な目標に人生を捧げようという若い男たちが、知性の最初の本能、つまり「知性の自己防衛本能」すら感じずにビールをガブガブ飲んでいるなんて、一体全体どうしてあり得るんだ? 学者の若者たちのアルコール中毒は、彼らの学識という点ではまだ問題にならないかもしれない(知性がなくても偉大な学者にはなれるからね)。だけど、それ以外のあらゆる点において、それは大問題だ。ビールが知性にもたらす「マイルドな退化」は、どこにだってみられる。私はかつて、ある有名になりかけた事例でその退化をハッキリ指摘したことがある。我がドイツ最初の自由思想家、あの利口なダヴィッド・シュトラウスが、「居酒屋の福音書」や「新しい信仰」の著者にまで成り下がった件だ。彼が「愛しの黒ビール」に詩で忠誠を誓ったのは伊達じゃない――死ぬまで添い遂げるってね……。
3
ドイツの知性について話していたんだった。それが粗雑になり、浅薄になっていると。それだけで十分だろうか? 実のところ、私を恐怖させているのは全く別のことだ。知的な事柄におけるドイツ人の真面目さ、深さ、情熱が、どんどん坂道を転がり落ちていることだ。知性だけでなく、その情熱の質そのものが変わってしまったんだよ。
私はあちこちのドイツの大学に触れることがあるが、そこの学者たちの間にはどんな空気が漂っていることか。なんと不毛で、自己満足的で、ぬるま湯に浸かったような知性だろう! ここで「でもドイツの科学や学問は世界一じゃないか」と反論してくる人がいたら、それは深い誤解だし、私の本を一行も読んでいない証拠だ。私はこの17年間、今の科学のあり方がいかに人間から知性を奪っているかを暴き立てることに飽きることがなかった。現代の科学の膨大な領域が個々の人間に強いる「過酷な奴隷労働」こそが、より豊かで深く、スケールの大きな素質を持った人間が、自分に合った教育や教育者を見つけられなくなっている主な原因だ。私たちの文化が何よりも苦しんでいるのは、傲慢な専門バカや、中身の断片的な人道主義者が溢れかえっていることだ。私たちの大学は、意図せずして、このような知性の本能的萎縮を育てる温床になってしまっている。そしてヨーロッパ全体がすでにそのことに気づいているんだ。大政治のハッタリで誰も騙されはしない……。ドイツはますます「ヨーロッパの平原地帯(底の浅い場所)」と見なされるようになっている。
私は、自分なりのやり方で真面目に向き合えるドイツ人をいまだに探している。ましてや、一緒に愉快になれる相手なんてなおさらだ! 『偶像の黄昏』――ああ、世捨て人がここへ来て、一体どんな深刻さから心身を休めているのか、今の誰が理解できるだろう! 私たちにとって「快活さ」ほど、理解されないものはないのだから……。
4
ざっと計算してみればいい。ドイツ文化が衰退しているのは一目然なだけでなく、それには十分すぎる理由がある。結局のところ、誰も自分が持っている以上のものを支払うことはできない。これは個人にも言えるし、民族にも言えることだ。もし自分の中にある知性、真面目さ、意志、自己克服といったエネルギーを、権力や大政治、経済、世界貿易、議会政治、軍事的な利益のために使い果たしてしまったら、もう別の側(文化)に回す分は残らない。
文化と国家は敵対するものだ。これについて勘違いしてはいけない。「文化国家」なんてものは、単なる近代の思いつきにすぎない。一方がもう一方を食い物にし、一方がもう一方の犠牲の上に繁栄するんだ。文化のあらゆる偉大な時代は、政治的には衰退の時代だった。文化の意味で偉大なものは、非政治的、いや、反政治的ですらあったんだ。
ナポレオンという現象を見たとき、ゲーテの心は躍った。だが、あの2つの「解放戦争」のときには彼の心は閉ざされた……。ドイツが強大国として台頭したまさにその瞬間、フランスは文化大国として新たな重要性を獲得する。すでに今日、多くの新しい真面目さ、知性の新しい情熱がパリへと移住している。例えばペシミズム(悲観主義)の問題や、ワーグナーの問題、ほとんどすべての心理学的・芸術的な問いは、ドイツよりもパリで比較にならないほど洗練され、根本的に考察されている。ドイツ人はこの種の真面目さを持つことすらできないんだ。
ヨーロッパ文化の歴史において、ドイツ「帝国」の台頭が意味することはただ一つ。重心の移動だ。どこでもすでに知られていることだが、最も重要なこと――つまり文化――において、ドイツ人はもう考慮に値しない。外国人は聞く。「君たちには、ヨーロッパ全体で通用するような知性が一人でもいるのか? かつてのゲーテやヘーゲル、ハインリヒ・ハイネやショーペンハウアーのように通用する者が?」と。ドイツ人の哲学者がもう一人も残っていないということへの驚きは、尽きることがないね。
5
ドイツの高等教育全体から、一番大切なものが失われてしまった。目的も、そのための手段もだ。教育や教養そのものが目的なのであって「帝国」のためではないということ、そしてその目的のためには「教育者」が必要なのであってギムナジウム(高等中学校)の教師や大学の学者ではないということ――それをみんな忘れてしまったんだ。
必要なのは、自分自身が教育された、卓越した、気高い知性を持った教育者だ。言葉を通じても沈黙を通じても、それが常に証明されるような、成熟し、芳醇になった文化の体現者だ。今のギムナジウムや大学が、若者に「高級な乳母」としてあてがうような、学問のある無骨者たちではない。例外中の例外を除けば、教育の第一前提であるはずの「教育者」が欠けている。だからドイツ文化は衰退しているんだ。その数少ない例外の一人が、私が心から尊敬するバーゼルの友人、ヤーコプ・ブルクハルトだ。バーゼルが人間性の優位性を保てているのは、何よりも彼のおかげだ。
ドイツの「高等学校」が実際に達成しているのは、できるだけ時間をかけずに、数多くの若い男たちを国家に役立つ(搾取できる)ようにするための「残酷な飼い慣らし」だ。「高等教育」と「大量」というのは、最初から矛盾している。あらゆる高等教育は、例外的な人間にしか属さない。そのような高い特権にあずかる権利を持つには、特権的な人間でなければならない。すべての偉大なもの、すべての美しいものは、決して大衆の共有物にはなり得ないんだ。Pulchrum est paucorum hominum(美しいものは少数の人のものである)。
ドイツ文化の衰退の原因は何か? 「高等教育」がもはや特権ではなくなったことだ。「一般教養」という名の、大衆化し俗悪化した「教養」のデモクラシーだ。忘れてはならないのは、軍事的な特権(※一年の志願兵制度など)が、高等学校への過剰な就学、つまりその破滅を半ば強制しているということだ。
いまのドイツでは、子供に気高い教育を受けさせる自由なんて誰にも残されていない。私たちの「高等」学校は、教師もカリキュラムも学習目標も、すべてがうさんくさい凡庸さに合わせて作られている。そしてどこもかしこも、まるで何かを見落としたかのように破廉恥なほど急いでいる。若い男が23歳にもなってまだ「完成」しておらず、「どんな職業に就くか」という「最大の疑問」に答えられないと、まるで手遅れであるかのように焦らせる。
失礼ながら、より高い次元の人間は「職業」なんて好まない。まさに、自分には果たすべき「天命」があると知っているからだ。彼らには時間がある。時間をかける。彼らは「完成」することなんて考えてもみない。高い文化の意味において、30歳なんてまだ初心者であり、子供なのだ。
生徒で溢れかえったギムナジウムや、仕事を詰め込まれて思考停止させられたギムナジウム教師たちは、スキャンダル(恥さらし)だ。最近、ハイデルベルクの教授たちがやったように、この惨状を擁護するのには何か思惑があるのかもしれないが、まともな根拠なんてどこにもない。
6
――自分のスタイル(私は肯定する人間であり、反論や批判は間接的かつ不本意ながらにしかしない性質だ)を崩さないために、ここでさっそく、教育者を必要とする「3つの課題」を提示しよう。
人は、見ることを学ばなければならない。考えることを学ばなければならない。話すことと書くことを学ばなければならない。 これら3つのゴールはすべて、気高い文化に到達することだ。
見ることを学ぶとは――目に落ち着きと忍耐を教え込み、対象が自分に近づいてくるのを待てるようにすることだ。判断を先送りし、個々のケースをあらゆる角度から吟味して把握できるようになること。これが知性へ向かうための最初の予備訓練だ。刺激に対してすぐに反応するのではなく、ブレーキをかけ、遮断する本能をコントロールできるようになることだ。私の言う「見ることを学ぶ」とは、非哲学的な言い方をすれば「強い意志」と呼ばれるものにほぼ等しい。その本質は、まさに「欲しない」ことであり、決定を保留できることにある。あらゆる反知性、あらゆる下劣さは、刺激に抵抗できない無能力さから生じる。反応せずにはいられない、すべての衝動に従ってしまうということだ。多くの場合、こうした「せずにはいられない状態」はすでに病気であり、衰退であり、疲弊の兆候だ。非哲学的な粗野な人々が「悪徳」と呼ぶもののほぼすべては、単に「反応しないことができない」という生理学的な無能力にすぎない。
「見ることを学んだ」ことの応用として、学ぶ者は一般的に、歩みが遅く、疑い深く、抵抗しがちになる。どんなものであれ、見慣れないものや新しいものが近づいてきたときは、まず敵対的なまでの冷静さで迎え、そこに手を出すのを控えるようになる。すべてのドアを開けっ放しにし、どんな小さな事実の前にもペタペタと腹ばいになって平伏し、いつでも飛びかかる準備をして他人や他人の事の中に飛び込んでいく、あるいは溺れていく……要するに、現代のあの有名な「客観性」というのは悪趣味であり、この上なく下品なことなのだ。
7
考えることを学ぶ――今の学校には、もうその概念すらない。大学でさえ、哲学の専門の学者たちの間でさえ、理論として、実践として、手仕事としての「論理学」が絶滅しかけている。ドイツの本を読んでみるといい。「考えることには技術が必要だ」「カリキュラムが必要だ」「達人になろうとする意志が必要だ」という概念の、遠い記憶すら残っていない。考えることは、踊りを学ばなければならないように、一種の「踊り」として学ばれるべきものなのに……。ドイツ人の中で、知的な世界における軽やかな足取りがすべての筋肉に流れ込んでくるような、あの経験に裏打ちされた繊細なゾクゾク感を今でも知っている者がいるだろうか!
知的な身振りのぎこちない無骨さ、物をつかむときの不器用な手――これは、外国人が「これぞドイツ人の本質」と勘違いしてしまうほど、いかにもドイツ的だ。ドイツ人には、ニュアンスを感じ取る指先がない……。ドイツ人が自分たちの哲学者を(よくもまあ見捨てずに)耐え忍んできたこと、とりわけ、かつて存在した中で最もねじ曲がった概念の奇形児である、あの偉大な「カント」を容認してきたことだけでも、ドイツ人の「優雅さ」がどの程度のものであるかがよく分かる。
つまり、どんな形であれ「踊ること」は気高い教育から切り離せない。足で踊れること、概念で踊れること、言葉で踊れること。あるいは、ペンでも踊れなければならない(書くことを学ばなければならない)と、わざわざ言う必要があるだろうか? ――だが、この段階に来ると、ドイツの読者にとって私は完全に「わけのわからない謎」になってしまうだろうがね……。
10時代遅れの男のぶらり旅
1
おれの「お呼びじゃない」面々。
セネカ: あるいは、道徳の闘牛士。
ルソー: あるいは、ありのままの汚らしさ(イン・プーリス・ナートゥラーリブス)に逆戻りした自然への回帰。
シラー: あるいは、ゼッキンゲンの道徳トランペット吹き。
ダンテ: あるいは、墓の中で詩をひねり出すハイエナ。
カント: あるいは、仮象(カンタリング)を本質と思い込む、お高くとまった「叡智的キャラクター」。
ヴィクトル・ユーゴー: あるいは、ナンセンスの海に浮かぶ灯台。
リスト: あるいは、女を追いかけるための「指の練習(流暢さの学校)」。
ジョルジュ・サンド: あるいは、「お乳たっぷり(ラクテア・ウベルタス)」。日本語で言えば、「美文」を書く乳牛。
ミシュレ: あるいは、服を脱ぎ捨てるほどの(暑苦しい)熱狂。
カーライル: あるいは、逆流してきた昼飯のようなペシミズム。
ジョン・スチュアート・ミル: あるいは、鼻につくほどの(薄っぺらい)明晰さ。
ゴンクール兄弟: あるいは、ホメロスに戦いを挑む二人のアイアース。ただし、BGMはオッフェンバックの軽音楽。
ゾラ: あるいは、悪臭を放つことを喜ぶ変態。
2
ルナンについて。
神学、要するに「原罪(=キリスト教)」による理性の破壊。その生きた証拠がルナンだ。彼は、ちょっと大局的なイエス・ノーを言おうとするたびに、痛々しいほど決まって的外れなことを言う。
例えば、彼は「科学(ラ・シアンス)」と「高貴さ(ラ・ノブレス)」を一つに結びつけようとする。だけど、科学がデモクラシー(大衆)側にあるなんて、誰が見ても明らかじゃないか。また、彼はなかなかの野心家だから「知性の貴族主義」を気取りたがる。その一方で、それとは正反対の教えである「弱者の福音(エヴァンジル・デ・ザンブル)」の前に膝を屈しているんだ。膝を屈するどころの騒ぎじゃないが……。
どんなに自由思想を気取り、モダンぶって、皮肉を言い、世渡りうまく立ち回ったところで、腹の底(内臓)までキリスト教徒、カトリック、果ては聖職者のままであるなら、一体何の意味があるんだ?
ルナンは、まるでイエズス会士や告白聴聞僧のように、相手をそそのかして口説き落とすのが実にうまい。彼の知性には、聖職者特有のいやらしいニヤニヤ笑いがこびりついている。そして、他のすべての聖職者と同じく、彼が本気で「愛」を語り出すときこそ、一番危険なんだ。これほど命がけのヤバいやり方で対象を崇拝できる奴は、他にちょっといない。
このルナンという精神、つまり人間の活力を奪い去る(去勢する)精神こそ、哀れで病んでいて、意志の病にかかっているフランスにとって、さらなる災厄なのだ。
3
サント=ブーヴについて。
男らしさがこれっぽっちもない。男らしい精神を持った奴らに対する、ちっぽけな嫉妬と憎悪でパンパンに膨れ上がっている。
あちこちをうろつき回り、繊細で、詮索好きで、退屈していて、盗み聞きばかりしている。本質はただの「女」であり、女特有の復讐心とねちっこい性欲を持っている。心理学者としては、他人の悪口(メディサンス)を言わせたら天才的だ。そのための手札は無限にある。誰かを褒めるフリをして、そこに毒を混ぜ込ませたら右に出る者はいない。
根底にある本能は卑俗で、ルソー的な「ルサンチマン(逆恨み)」の同類だ。だからこそロマン主義者なのだ。要するに、すべてのロマン主義の皮を剥けば、ルソー的な「復讐への欲望」がブーブーと鳴いて、よだれを垂らしている。革命家ではあるが、臆病なせいで、なんとかギリギリ自制を保っている。
力があるもの(世論、アカデミー、宮廷、さらにはポール・ロワイヤル修道院)に対しては、まったくの腑抜けになる。人間であれ物事であれ、偉大なもの、あるいは自信に満ちあふれているものすべてに対して、激しい憎悪を抱いている。偉大さを「力」として感じ取れる程度には詩人であり、半ば女性的でもある。だからこそ、あの有名な虫ケラのように、常に自分が踏みつけられているように感じて、いつでも体をくねらせているのだ。
批評家としては、基準も軸も骨骨(バックボーン)もない。何にでも手を出したがる「コスモポリタンな道楽者(リベルタン)」の舌を持ちながら、自分が道楽者であると認める勇気すらない。歴史家としては哲学を欠いており、哲学的な大局観も持てない。だからこそ、肝心な局面での判断をすべて放棄し、「客観性」という仮面を自分の前にかざしている。
ただし、繊細で、使い古された「趣味(センス)」が最終決定権を持つような領域では、彼の態度は一変する。そこでは、彼は本当に自分自身を肯定する勇気を持ち、自分を楽しんでいる。そこでの彼はまさに「巨匠(マイスター)」だ。
ある意味で、彼はボードレールの先祖返り、あるいは予告編のような存在だと言える。
4
『キリストに倣いて(イミタティオ・クリスティ)』は、生理的な嫌悪感なしには手に取れない本の一つだ。
この本からは「永遠に女性的なもの」の香水が漂ってくるが、これを楽しむには、すでにフランス人になっているか、さもなければワグネリアン(ワーグナー信者)である必要がある。この「聖人」の愛の語り口と来たら、あのパリジェンヌたちでさえ興味津々になるほどだ。
フランス人たちを「科学」という回り道を使ってローマ(教会)へと連れ戻そうとした、あの最高にずる賢いイエズス会士、オーギュスト・コントも、この本からインスピレーションを得たらしい。納得だ。「心の宗教」というわけか……。
5
ジョージ・エリオットについて。
イギリス人どもは、キリスト教の神を放り出したくせに、だからこそなおさら「キリスト教的な道徳」だけはしっかりキープしなきゃいけないと思い込んでいる。これぞイギリス風の一貫性(笑)だ。エリオットみたいな「道徳おんな」たちのことを、別に大目に見てやってもいいがね。
イギリスでは、神学からちょっとでも自立(解放)しようとするたびに、世間に対して「おれはこんなに恐ろしいほどの道徳狂信者ですよ!」とアピールして、自らの名誉を回復しなければならない。これが向こうでの「贖罪の代償」なのだ。
だが、おれたち他の人間にとっては話が違う。
キリスト教の信仰を捨てるなら、それと同時に「キリスト教的道徳」を掲げる権利だって、自分の足元から引っこ抜かれることになる。道徳なんてものは、決して当たり前の自明なものじゃない。イギリスの薄っぺらなバカども(フラットヘッズ)の鼻を明かすためにも、この点は何度でもはっきりさせておく必要がある。
キリスト教とは一つの「システム」であり、丸ごとパッケージ化された一貫性のある世界観だ。そこから「神への信仰」というメインのコンセプトを一つでも引き抜いてしまえば、システム全体がバラバラに壊れてしまう。手元には何一つ必然的なものは残らない。
キリスト教は、「人間は自分にとって何が善で、何が悪かを知らないし、知ることもできない」という前提に立っている。だからこそ、唯一それを知っている神を信じるのだ。つまり、キリスト教的道徳とは「命令」であり、その起源はあの世(超越的な領域)にある。それは一切の批判や、批判する権利を超越している。神が真理である場合にのみ、その道徳も真理となる。つまり、それは「神への信仰」と一蓮托生なのだ。
もしイギリス人が、自分たちの力で「直感的」に善悪が分かると本気で信じているなら、そして「だから道徳を保証するためのキリスト教なんてもう要らない」と思っているなら、それ自体がキリスト教的な価値判断に脳内を支配されている証拠にすぎない。その支配があまりにも強くて深いために、イギリス的道徳のルーツがどこにあるかを忘れ、自分たちの道徳が存在する権利が、いかに「条件付き(キリスト教ありき)」のものであるかを感じ取れなくなっているだけだ。
イギリス人にとって、道徳はいまだに「問題」にすらなっていないのだ。
6
ジョルジュ・サンドについて。彼女の『旅人の手紙』の最初の方を読んだけど、ルソーの流れを汲むものすべてがそうであるように、嘘っぽくて、作り物で、大げさで、中身がからっぽだ。こういうカラフルな壁紙みたいな薄っぺらい文体には耐えられないね。大層な感情を気取る大衆的な野心も同じく無理だ。
でも一番ひどいのは、男っぽさや生意気な小僧の仕草を気取った、女の媚び売りだね。—それにしても、この鼻持ちならない女芸術家は、どれだけ冷めきっていたんだろう! ネジを巻いた時計みたいに動いて、ただ書いていただけ……。冷淡なんだよ、ユゴーもバルザックも、ロマン派の連中が創作する時はみんなそうだ!
そして、この多作な「執筆牝牛」は、どれほど自己満足に浸って寝そべっていたことか。彼女には悪い意味でドイツ的なところがあった。彼女の師匠であるルソーと同じだね。どっちにしろ、フランスの趣味が没落したからこそ世に出られた代物さ。—それなのに、ルナンは彼女を崇拝しているっていうんだからね……。
7
心理学者への教訓。—三流の安売り心理学なんかやるな! 観察するための観察なんて絶対にやめるべきだ! そんなことをすると視野が歪んで、偏見が生まれ、不自然で大げさなものになってしまう。体験しようと思って体験する—そんなのうまくいくわけがない。体験している最中に自分自身を覗き込もうとしちゃダメだ。そんな視線はすべて「呪いの目」になる。
生まれつきの心理学者は、本能的に「見るための観察」を避けるものだ。生まれつきの画家だって同じさ。彼は絶対に「自然のまま」には描かない。自分の本能、つまり心の中の暗箱(カメラ・オブスクラ)に、その「事例」や「自然」や「体験」をふるいにかけて表現することを任せるんだ……。彼が意識するのは、全体的なものや結論、結果だけであって、個々の事例から無理やり抽象化するなんてことはしない。
—もし逆のことをしたらどうなるか? 例えば、パリの大小さまざまな小説家たちみたいに、安売り心理学に走ったら? 現実を待ち伏せして、毎晩ちょっとした珍品を抱えて帰るようなものだ……。だけど、最終的にどうなるか見てみろよ。単なるシミの山か、よくてモザイク画、どっちにしてもただの継ぎ接ぎで、落ち着きがなくて、悪趣味で派手な代物さ。その最悪の例がゴンクール兄弟だ。彼らは心理学者の目をただ痛めつけるだけの文章を、3文と続けて書けない。
—芸術的な視点から見れば、自然はモデル(お手本)なんかじゃない。自然は誇張するし、歪むし、穴だらけだ。自然とは偶然の産物なんだ。「自然に倣う」勉強なんて、僕にいわせればダメな兆候だね。それは屈服であり、弱さであり、宿命論だ。こんな「ちっぽけな事実(プチ・フェ)」の前にひれ伏すなんて、本物の芸術家のすることじゃない。あるがままを見る—それは別の種類の人間、つまりアンチ芸術的で事実主義的な連中の仕事だ。自分が何者であるかを知らなきゃいけないよ……。
8
芸術家の心理について。—芸術が存在するためには、つまり何らかの美的な創作や鑑賞が成り立つためには、絶対に欠かせない生理学的な前提条件がある。それが「酩酊(トランス状態)」だ。酩酊が身体というマシンの興奮度をグッと高めてくれないと、芸術なんて生まれない。
どんな原因で起こる酩酊であれ、その力を持っている。中でも一番強力なのは、性的な興奮による酩酊だ。これが最も古く、原始的な酩酊の形だね。同じように、あらゆる大きな欲望や強い情動に伴う酩酊、祭りの酩酊、競争の酩酊、神業を成し遂げた時の酩酊、勝利の酩酊、あらゆる極端な動きの酩酊、残酷さの酩酊、破壊の酩酊、特定の気象条件(例えば春の酩酊)によるもの、麻薬による酩酊、そして最後に、溢れんばかりに膨れ上がった「意志の酩酊」がある。
—酩酊の本質は、力がみなぎり、満たされているという感覚だ。この感覚があるからこそ、人は物事に自分の力を分け与え、無理やり自分から受け取らせ、ねじ伏せる—このプロセスのことを「理想化」と呼ぶんだ。ここで一つ偏見を捨てよう。理想化とは、世間で思われているように、小さなことや本質的でない部分を削ぎ落とすことじゃない。むしろ、決定的な特徴をもの凄く誇張して押し出すことで、他の部分を見えなくしてしまうことなんだ。
9
この状態の人間は、自分自身の充実感からすべてのものを豊かにする。見るもの、望むものすべてが膨らみ、凝縮され、力強く、エネルギーに満ちあふれて見える。この状態にある人間は、物事が自分の力を映し出し、自分の完璧さを反射するようになるまで、それらを作り変えてしまう。この「完璧なものへと作り変えざるを得ない衝動」こそが芸術だ。自分にはないものでさえ、彼にとっては自己満足のタネになる。芸術において、人間は自分自身を完璧なものとして楽しむんだ。
—逆に、これとは正反対の状態を想像してみるのもいい。本能的に芸術を徹底的に拒絶するような、あらゆるものを貧しくし、薄っぺらくし、消耗させる生き方だ。実際、歴史にはこうしたアンチ芸術家、人生に飢えた連中がたくさん登場する。彼らはどうしても物事を自分の中に取り込んで、干からびさせ、貧弱にせずにはいられないんだ。
例えば、本物のキリスト教徒がそうだ。パスカルなんか好例だね。芸術家でありながらキリスト教徒でもあるなんて人間は、存在しえない……。子供じみた反論で、ラファエロだの19世紀の薄められたキリスト教徒だのを持ち出さないでくれよ。ラファエロは「イエス」と言ったし、「イエス」を創り出した。だから、ラファエロはキリスト教徒じゃなかったんだ……。
10
僕が美学に持ち込んだ「アポロン的」と「ディオニュソス的」という対立概念は、どちらも酩酊のあり方だけど、一体どういう意味なのか?
—アポロン的な酩酊は、何よりも「視覚」を興奮させ、幻視(ヴィジョン)を見る力を与える。画家や彫刻家、叙事詩人はまさに幻視の達人だ。
それに対して、ディオニュソス的な状態では、情動システム全体が興奮して高まる。その結果、あらゆる表現手段を一気に爆発させ、表現する力、模倣する力、変形する力、変身する力、あらゆる身振りや演技の才能を同時に引き出すんだ。ここで本質的なのは、簡単に「変身」できてしまうこと、そして反応せずにはいられないことだ(これは、ちょっとした合図でどんな役にも入り込んでしまう、ある種のヒステリー患者に似ている)。
ディオニュソス的な人間は、どんな暗示も理解せずにはいられないし、感情のサインを見逃さない。彼は最高レベルの理解力と直感を持っていて、同時に最高レベルの伝達の芸術を持っている。どんな人間の立場にも、どんな感情にもスッと入り込めて、常に変化し続けるんだ。
—現代の僕たちが理解している音楽も、同じように感情の全体的な興奮と爆発だけど、それはかつてあったもっと豊かな感情表現の世界の名残にすぎない。ディオニュソス的な演技力のごく一部が残ったものなんだ。音楽を独立した芸術として成り立たせるために、僕たちはいくつかの感覚、特に筋肉の感覚をストップさせてきた(相対的にだけどね。ある程度はどんなリズムも筋肉に語りかけてくるから)。そのせいで、人間は自分が感じたことすべてを、その場で体を使って模倣したり表現したりしなくなった。それでも、それこそが本来のディオニュソス的な正常な状態であり、原初の状態だ。音楽は、すぐ隣にある他の能力を犠牲にしながら、ゆっくりと時間をかけて専門化していったものなんだよ。
11
役者、マイム(無言劇の役者)、ダンサー、ミュージシャン、詩人。彼らは本質的なセンスがものすごく似ていて、元々は一つだったんだ。それがだんだん専門化してバラバラになって、今じゃ反発し合うまでになっちゃった。最後まで音楽とくっついていたのが詩人で、ダンスとくっついていたのが役者だね。
一方で、建築家ってのは「ディオニュソス的(熱狂的)」でも「アポロン的(秩序的)」でもない。ここにあるのは、山をも動かすような「巨大な意志の力」なんだ。大いなる意志のトランス状態(興奮)が、アートという形を求めて爆発したのが建築。だから、歴史上の超パワフルな権力者たちがいつも建築家にインスピレーションを与えてきたし、建築家自身も常に「権力」の暗示にかかっていた。
建物には、プライドや、重力への勝利、そして「権力への意志」がハッキリと見える形で表されるべきなんだ。そう、建築とは、形を使った「権力のスピーチ」みたいなもの。ある時は甘く説得し、ある時はただただ命令する。
そして、圧倒的なパワーと余裕が最高潮に達したときに生まれるのが、いわゆる「偉大なスタイル(様式)」だ。もう自分を証明する必要なんてない、お世辞も言わない、問いかけにも重々しくしか答えない、周りの目なんて気にしない。自分への反論が存在することすら気づかずに生きていて、ただ運命を受け入れてそこに佇んでいる——そんな「それ自体がルール」みたいな絶対的な佇まい。それこそが「偉大なスタイル」が語りかけてくるものなんだ。
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トマス・カーライルの伝記を読んだんだけど、いやはや、本人は大真面目なのに結果として喜劇(ドタバタ劇)になっていて笑っちゃう。あれは消化不良(胃弱)のイライラを「英雄的で道徳的な何か」にこじつけただけの話だ。
カーライルって男は、大層な言葉や態度を好む、言ってみれば「切羽詰まったただの弁論家」だ。強い信仰を常に求めていながら、どうしてもそれを信じきれない自分にイライラしている(これぞ典型的なロマン主義者!)。「強い信仰を求めること」は、強い信仰を持っている証拠にはならない。むしろ逆だ。もし本当に信仰があるなら、あえて「疑う」という贅沢な大人の遊びを楽しめるはず。だって、自分の足元は十分に固まっているんだからね。
カーライルが、強い信仰を持つ人々を「フォルテッシモ(大音量)」で崇拝したり、自分より賢い人たちにキレ散らかしたりしているのは、自分の中の何か(不安や猜疑心)をかき消すためだ。要するに、彼はノイズが必要なんだよ。自分に対して、常に情熱的にウソをつき続ける。これこそが彼の本質であり、だからこそ彼は今でも「面白い存在」でいられるんだ。
まあ、イギリスではまさにその「誠実さ」とやらが絶賛されているらしいけど……。ふん、いかにもイギリス人らしいね。なんせあそこは「偽善(キャント)」の国だから、納得だし、当然とさえ言える。要するにカーライルは、神を信じていないことを必死に隠そうとして躍起になっている、ただのイギリスのアテシスト(無神論者)なんだよ。
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(それに比べて)エマーソンはどうか。
カーライルよりもずっと物知りだし、自由で、多才で、洗練されていて、何よりもハッピーだ。彼は生まれつき、美味しいごちそう(神々の食べ物アムブロシア)だけを食べて、消化に悪いものはサラッと残せるタイプ。カーライルと比べたら、めちゃくちゃセンスがいい。
カーライルはエマーソンをすごく愛していたけれど、それでも彼のことを「噛みごたえが足りない(物足りない)」なんて評していた。まあ一理あるかもしれないけれど、別にエマーソンの価値が下がるわけじゃない。
エマーソンには、どんな深刻な真面目さもフニャッと脱力させてしまうような、優しくて知的な明るさがある。彼は自分がどれだけ年をとっているかも、これからどれだけ若くいられるかも、これっぽっちも気にしていない。ロペ・デ・ベガの言葉を借りるなら、「私は私自身を継承する」って感じだ。彼の精神は、どんなときでも満足し、感謝する理由を見つけ出す。時には、あの気楽な「おじさん」の超然としたハッピーオーラに近づくことさえある。そう、大好きな女の子とデートを済ませて「万事うまくいったぞ!」とホクホク帰ってきたおじさんが、
> 「たとえ(ベッドでの)体力が衰えていようとも、楽しもうとしたその気持ちは大いに褒められるべきだよね」
と、感謝しながら呟くような、あのノーテンキな明るさにね。
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反ダーウィン説。
世間で有名な「生存競争」だけど、今のところ僕には、みんながそう主張しているだけで、本当に証明されたとは思えない。そんな競争が起きることもあるけれど、それは例外だ。生命の全体像を見てごらんよ。困窮や飢餓どころか、むしろ富、過剰な豊かさ、バカげたほどの無駄遣いに満ちあふれている。もし闘いがあるのだとしたら、それは生存のためではなく「権力(支配)」をめぐる闘いだ。マルサス(の人口論)と大自然を混同しちゃいけない。
仮にその生存競争があるとして(実際、たまにあるんだけど)、残念なことに、結果はダーウィン派が望むようにはならない。つまり、強い者や、恵まれたエリートたち、幸運な例外の側が負けるんだ。生物の種は、進化すればするほど完璧になるわけじゃない。いつだって弱い者が強い者を支配する。なぜなら、弱い者の方が圧倒的に数が多く、そして「賢い」からだ。
ダーウィンは「知性(精神)」という要素を忘れている(まったく、イギリス人らしい抜けた話だ!)。弱い者の方が知性を持っているんだよ。知性を手に入れるためには、知性を必要とする環境にいなきゃいけない。必要なくなれば、知性は失われていくんだ。最初から強い者は、知性を捨ててしまう(今のドイツ人が「知性なんて知るか! 俺たちには帝国(力)があるんだから」と思っているみたいにね)。
ちなみに、僕がここで言う「知性」とは、警戒心、忍耐強さ、ずる賢さ、嘘、高い自己コントロール能力、そして「擬態(ミミクリー)」に関わるすべてのことだ(いわゆる道徳の大部分も、この擬態に含まれるんだけどね)。
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心理学者のあれこれ。
「あの人は人間通だ」と言うけれど、彼は一体何のために人間を観察しているんだろう? 相手を出し抜いて、ちょっとした、あるいは特大のメリットを得たいから。要するに、彼は「政治屋(策略家)」なんだ。
「あっちの人も人間通だよ。でも自分の利益のためじゃなくて、プライベートを挟まない客観的で素晴らしい人なんだ」って? もっとよく見てごらんよ。その「客観的な人」は、もっとタチの悪いメリットを狙っているかもしれない。つまり、「自分は周りの人間より上だ」と感じ、見下し、その他大勢と一緒くたにされたくないんだ。
この「客観的な人」の正体は、ただの「人間嫌い」だ。だから、見た目がどうであれ、最初の「ずる賢い政治屋」の方がまだ人間味があってマシなんだよ。だって彼は、少なくとも相手と同じ土俵に立って、人間関係の中に飛び込んでいるんだからね。
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ドイツ人の心理的なセンス(空気読める度)って、正直かなり怪しいと思ってる。具体例を挙げ出すとキリがないし、僕の謙虚さが邪魔をして全部は言えないんだけどね。ただ、1つだけ特大の例を出して僕の持論を証明させてもらうよ。僕はドイツ人がカントをいまだにありがたがっているのが許せないんだ。あんなの僕に言わせれば「裏口の哲学」だし、お世辞にも知的に誠実なタイプとは言えない。
あと、もう1つ聞いててイライラするのが、あの悪名高い「〜と〜」って並べ方。ドイツ人は「ゲーテとシラー」って言うだろ? なんなら「シラーとゲーテ」なんて順に言ってるんじゃないかとヒヤヒヤする。みんなシラーの正体をまだ分かってないのか?
でも、もっとひどい「〜と〜」もある。大学教授たちの間でだけだけど、僕は自分の耳で聞いてしまったんだよ。「ショーペンハウアーとハルトマン」なんて並びをね。
17
最高に知的な人たちっていうのは、同時に最高にタフで勇敢でもある。だからこそ、彼らは人生で一番ヘビーで悲劇的な経験をするんだ。でも、だからこそ彼らは人生をリスペクトしている。人生がこれでもかと、最大級の強敵として自分たちの前に立ちはだかってくれるからね。
18
「知的な良心」について。
今の時代、本物の「偽善」ほどレアなものはないと思う。僕の勘だと、今の生ぬるい文化の空気は、偽善という植物が育つには向いていないんだ。そもそも偽善が成り立つのは、みんなが強い信仰を持っていた時代だけ。どうしても別の信仰をポーズで見せなきゃいけない時でも、自分の本心の信仰は絶対に捨てなかった時代のことさ。
ところが今は、あっさり元の信仰を捨てる。もっとよくあるのは、2つ目の信仰も掛け持ちしちゃうケースだ。本人はどちらの場合もいたって真面目(笑)。間違いないのは、昔に比べて今は信じられる選択肢がめちゃくちゃ増えたってこと。選択肢が増えたというのは、つまり「どれを信じても許されるし、無害だ」ってことさ。ここから「自分への甘さ(自己寛容)」が生まれる。
自分に甘くなると、いろんな考え方を同時につまみ食いできるようになる。それぞれの考え方が喧嘩もせず、仲良く同居するんだ。今の世の中全体がそうであるように、みんな「ボロを出さないこと」に必死だからね。じゃあ、今の時代にボロを出す(軽蔑される)ってどういうことだと思う?
それは、一貫性があること。ブレずにまっすぐ進むこと。含みを持たせずストレートであること。そして、本物であること……。
僕が本当に心配しているのは、現代人が「悪徳」を働くのすら面倒くさがりすぎて、悪いこと自体が絶滅しちゃうんじゃないかってことんだ。強い意志があって初めて成り立つような「悪」は——というか強い意志のない悪なんてないんだけど——この生ぬるい空気の中では、全部ぐにゃぐにゃに劣化して、ただの「美徳」になっちゃう。
僕がこれまで出会った数少ない偽善者たちも、ただ偽善のマネごとをしていただけだった。彼らは今の時代の10人に1人がそうであるように、ただの「役者」だったんだよ。
19
美と醜について。
僕たちの「美しい」と感じるセンスほど、状況に縛られた、もっと言えば「視野の狭い」ものはない。人間が人間に抱く性的な関心や愛着から「美」を切り離して考えようとする人がいたら、その瞬間に足元をすくわれるよ。そもそも「客観的な美(美それ自体)」なんてただの言葉でしかなくて、概念としてすら成り立っていない。
人間は「美しいもの」の中に、自分自身の完璧さの基準を映し出している。ひどい時には、そこに映る自分を拝んでいるんだ。ある種族が生き残るためには、こういう形で自分自身を全肯定するしかないんだろうね。生存して勢力を広げようとする一番根本の生存本能が、こういうハイレベルな綺麗ごと(美の意識)にまで現れているわけだ。
人間は世界そのものが美しさで溢れていると勘違いしているけど、自分がその美しさを生み出した張本人だってことを忘れている。世界に美しさをプレゼントしたのは人間んだよ。あぁ、それも「人間的な、あまりに人間的な」美しさでしかないんだけどね……。
結局のところ、人間は万物の中に自分を映し出しているだけ。「自分の姿をハッキリ返してくれるもの」を美しいと思い込んでいるんだ。「美しい」という判定は、人間という種族のうぬぼれにすぎない。
だって、ちょっと斜に構えた人が耳元でこう囁いたらどうする?「人間が美しいと思っているからって、本当に世界が美しくなったの?」って。人間は世界を自分好みに擬人化した、それだけのことさ。人間が美のモデル(お手本)だなんて保証は、どこにもないんだ。
もっとセンスのいいハイレベルな審査員から見たら、人間がどう映っているか分かったもんじゃない。危なっかしいやつ? もしかしたら笑えるやつ? あるいは、ちょっと独りよがりな生き物に見えているかもね……。
「ねえディオニュソス、神様、どうして私の耳を引っ張るの?」
ナクソス島でのあの有名な対話の最中、アリアドネは哲学的な恋人にそう尋ねた。
「アリアドネ、君の耳にはなんだかユーモアがあるね。どうせなら、もっと長くしちゃえばいいのに」
20
「美しいのは人間だけ。人間以外に美しいものなんてない」——どんな美学も、このピュアな思い込み(第一の真理)の上に乗っかっている。じゃあ、すぐに第二の真理も付け加えよう。
「醜いのは、劣化していく人間だけ」——これで美的なジャッジの範囲はすべて決まる。
生物学的に計算してみても、醜いものはすべて人間を弱らせ、どんよりさせる。衰退、危険、無力さを連想させるから、それを見るだけで実際にエネルギーが減っちゃうんだ。醜さが与えるダメージは、握力計みたいに数値で測れるレベルなんだよ。
人はテンションが下がったり気が滅入ったりすると、直感的に「醜いもの」の気配を察知する。自分のパワーがみなぎる感覚、権力への意志、勇気、プライド……これらは醜いものを見ると下がり、美しいものを見ると上がる。
どちらの場合も、僕たちの脳内では本本能レベルの膨大なデータから一瞬で結論が出されているんだ。僕たちは醜いものを「劣化(ディジェネレーション)のサイン」として受け取る。ほんの少しでも劣化を連想させるものは、僕たちの中に「醜い」というジャッジを引き起こす。
エネルギー切れ、重苦しさ、老い、疲労、何かに縛られている感じ(痙攣や麻痺など)、そして何より、崩壊や腐敗の「匂い・色・形」……たとえそれが限界まで薄まったシンボルであっても、すべて同じ拒絶反応、つまり「醜い」という価値判断を呼び起こすんだ。
そこから激しい「憎しみ」が湧き上がる。じゃあ、人間は一体何を憎んでいるのか?
答えはハッキリしている。自分たち人間というタイプの「落ちぶれた姿(没落)」を憎んでいるんだ。種族としての底深い本能から憎んでいる。この憎しみの中には、恐怖、警戒心、深み、遠い未来への視線が詰まっている——これこそ世界で一番深い憎しみだ。この憎しみがあるからこそ、芸術には深い意味があるんだよ。
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ショーペンハウアーについて。まともに相手にする価値のある最後のドイツ人であり(ゲーテやヘーゲル、ハイネと同じように、単なる一地方の「国民的」なレベルにとどまらず、ヨーロッパ全体に影響を与えた大事件だった)、心理学者にとっては一級品の観察対象だ。
どういうことかというと、彼は人生を根底から否定する「ニヒリズム」を正当化するために、あえて生命力にあふれたもの、つまり「生への意志」を思いっきり肯定するような、生みなぎる要素ばかりを引っ張り出してくるという、歪んだ天才的な企みをしたんだ。
彼は、アート、英雄的行為、天才、美、深い同情、知識、真理への意志、そして悲劇にいたるまで、これらすべてを「意志の否定」や「意志を否定したいという欲求」の表れとして解釈してしまった。キリスト教を除けば、人類の歴史のなかでこれほどデカい心理学的なペテン(偽造)はないよ。
もっとよく見てみれば、彼は結局のところキリスト教的な解釈の跡継ぎにすぎない。ただ、キリスト教が否定したはずの人類の偉大な文化の数々までも、キリスト教的(つまりニヒリズム的)な意味で「素晴らしいもの」として認めようとしただけなんだ(要するに、それらを「救済」への道であり、「救済」の初期段階であり、「救済」を求める気持ちを刺激するものとして扱ったわけだ)。
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ちょっと一つの例を挙げてみよう。ショーペンハウアーは、なんだか切なげな熱情を込めて「美」について語るんだけど、その根本的な理由は何だと思う?
彼にとって美とは、その先へ進むための、あるいはその先へ進みたいと喉から手が出るほど思わせるための「架け橋」だからだ。彼に言わせれば、美はほんの一瞬だけ「意志」から解放してくれる「救済」であり、永遠の救済へと誘い出してくれるものなんだ。
特に彼は、美が「意志の焦点」である性的な欲求から人を救い出してくれると大絶賛している。美のなかでは生殖の衝動が否定されている、というわけだ。
いやはや、なんともおかしな聖者さまだね!でも、そんな彼に異議を唱える者がいる。そいつはズバリ「自然(ネイチャー)」だ。そもそも、なぜ自然界には音や色や香り、リズムに乗った動きといった「美」が存在するのか?何が美を湧き立たせているのか?
幸いなことに、一人の哲学者も彼に異議を唱えている。他でもない、あの「神聖なるプラトン」(これはショーペンハウアー自身がそう呼んだんだが)という偉大な権威が、まったく逆の主張を掲げているんだ。つまり、「あらゆる美は、生殖(エロス)を刺激するものであり、最も感覚的なレベルから最も精神的なレベルにいたるまで、それこそが美の本来の働きである」とね。
23
プラトンはさらに踏み込んでいる。彼は、「キリスト教徒」ではなく「ギリシャ人」でなければ持ち得ないような純真さで、こう言っている。「アテネにあの美しい若者たちが存在しなかったら、プラトン哲学なんてものは生まれなかった」と。
美しい若者たちの姿を見て初めて、哲学者の魂はエロス的な陶酔に陥り、その魂は、あらゆる高貴な思想の種をその美しき大地(若者たち)に植え付けるまでは、じっとしていられなくなるのだという。
これまた風変わりな聖者さまだね!プラトンを信じるにしても、自分の耳を疑いたくなるような話だ。少なくとも、アテネでの哲学は、今とはまったく違うやり方で、しかも何より「オープンな場所」で行われていたんだなということが察せられる。
世捨て人が頭の中で概念のクモの巣を紡ぎ出すような行い(例えばスピノザ流の「神への知的愛」みたいなもの)は、最もギリシャ的とは言えないものだ。プラトン流の哲学というのは、むしろ「エロス的な競争」と定義した方がしっくりくる。古代の体育館(ギムナジウム)で行われていた、あの競い合いの文化とその前提を、発展させて内面化したものなんだ。
さて、このプラトンの哲学的なエロスから、最終的に何が生まれたと思う?ギリシャ的な競争(アゴーン)が生んだ新しい芸術のカタチ、すなわち「問答法(ダイヤレクティク)」だ。
ついでに、ショーペンハウアーに一撃を食らわせ、プラトンを称えるために言っておくと、古典期フランスのハイレベルな文化や文学も、すべては「性的な関心」という土壌から育ったものだ。そこにある宮廷風の恋愛(ギャランティ)、官能、セックスを巡る駆け引き、そして「女性」という存在を探してみるといい。どこを探したって、必ずそれが見つかるはずだから。
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「芸術のための芸術(アート・フォー・アート・サイク)」。
芸術における「目的」への反発というのは、いつも決まって、芸術に道徳を押しつけようとする傾向(芸術を道徳の下に置こうとすること)への反発なんだ。「芸術のための芸術」が言いたいのは、要するに「道徳なんてクソ食らえ!」ってこと。
だけど、そんな敵対心の中にさえ、偏見に支配された頭の固さが見て取れる。芸術から「道徳を説くこと」や「人間を良くすること」という目的を排除したからといって、じゃあ芸術にはまったく目的も、ゴールも、意味もないのか(=芸術のための芸術、つまり自分の尻尾を噛むヘビのようなものなのか)と言えば、決してそんなことはない。
「道徳的な目的を持つくらいなら、いっそ目的なんて一切ない方がマシだ!」というのは、単なる感情的な言い草だ。
心理学者なら、こう問いかける。「そもそも芸術は何をしているのか?価値を称賛し、美化し、選び抜き、引き立たせているのではないか?」と。これらすべてを通して、芸術は特定の「価値観」を強めたり弱めたりしているんだ。
これって、単なるオマケや偶然だと思う?アーティストの本能がまったく関わっていないとでも?それとも、むしろこれこそが、アーティストが創作活動をするための前提条件なんじゃないだろうか?
アーティストの根底にある本能は、芸術そのものに向かっているのか?それとも、芸術の意味である「生(生きること)」、つまり「こう生きたいという憧れ」に向かっているのか?
芸術は、生きるための強力な刺激剤(興奮剤)だ。それなのに、どうして「目的がない」「ゴールがない」「芸術のための芸術だ」なんて解釈ができるだろう。
ここで一つ疑問が残る。芸術は、人生の醜いところや、過酷なところ、疑問に満ちたところもたくさん描き出すよね。それって、人生を嫌悪させるためのものじゃないの?
実際、そうやって解釈した哲学者もいた。ショーペンハウアーは、芸術の全体的な目的は「意志から抜け出すこと」だと教え、悲劇の素晴らしい役目は「諦めの境地(諦念)へと導くこと」だと崇めた。
だけど、これについてはすでにほのめかした通り、ペシミスト(悲観主義者)のひねくれた見方、つまり「邪悪な目(バイアス)」でしかない。
ここは、アーティスト本人たちに聞いてみるべきだ。悲劇を描くアーティストは、自分の中の何を表現しているのだろう?彼らが描き出す恐怖や疑問に満ちたものに対して、「ビビらない状態」そのものを表現しているんじゃないだろうか?
この「恐れない状態」こそ、誰もが憧れる素晴らしい境地だ。それを知る者は、最大級の敬意を払う。アーティストであり、表現の天才であるならば、彼はその感覚をみんなに伝え、分かち合わずにはいられないんだ。
強大な敵、崇高な苦難、身の毛もよだつような問題の前に立ったときの、感情の勇敢さと自由さ。この「勝利の感覚」こそを、悲劇のアーティストは選び取り、称賛するのだ。
悲劇を目の前にするとき、私たちの魂の中にある闘争本能(戦士の血)はお祭り騒ぎを起こす。苦痛に慣れている者、自ら苦痛を求めるようなヒーロー(英雄的な人間)は、悲劇を通して自分の存在を肯定する。悲劇作家は、彼らのような強者にだけ、この上なく甘美な残酷さという美酒を差し出すんだ。
25
誰とでも仲良くやり、誰にでもオープンに心を開くこと。それは確かに「寛大(リベラル)」だけど、単にそれだけのことだ。
本当に気高いもてなしができる心を持っている人は、多くの窓にカーテンを引き、鎧戸(シャッター)を閉ざしていることで見分けられる。彼らは一番良い部屋を空けたままにしているんだ。
なぜかって?
「とりあえずの誰か」ではなく、本当に大切なゲストを待っているからさ。
大変失礼いたしました!番号の表記が漏れてしまっていましたね。
しっかり番号(26〜30)を残した上で、フランクで読みやすい和訳に修正しました。こちらでご確認ください!
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私たちは、自分のことを誰かに話そうとした時点で、もうその体験の価値を自分の中で下げてしまっている。本当に深い体験というのは、べらべらとおしゃべりしたりしないものだ。そもそも、しゃべろうと思ったところで言葉にすることなんてできない。なぜなら、それにぴったりハマる言葉が存在しないからだ。言葉で表せるようなことなんて、私たちはもうとっくに通り過ぎて(乗り越えて)しまっている。言葉を発するという行為には、少なからず「見下し」のニュアンスが含まれているんだ。どうやら言葉というやつは、ありふれたこと、平均的なこと、誰にでも伝わることのためだけに作られたらしい。言葉を口にした瞬間、話している本人までなんだか安っぽく(俗っぽく)なってしまうのだ。――聾唖者(ろうあしゃ)、あるいは哲学者たちのための倫理より。
27
「まあ、なんてうっとりするほど美しい肖像画かしら!」……。いわゆる「文学系女子(インテリ女性)」ってやつは、いつも満たされず、イライラしていて、心も身体の奥底も空っぽだ。だけど、自分の本能の奥深くから「子供を産むか、さもなくば本を書くか」という命令が聞こえてこないかと、いつでも痛々しいほどの好奇心で耳をすませている。彼女たちは、たとえ自然の声がラテン語で語りかけてきたとしても理解できるくらいには教養がある。その一方で、密かにフランス語で自分にこう語りかけるくらいには自惚れ屋でマヌケ(おめでたいお調子者)でもあるんだ。「鏡で自分を見つめ、自分の書いたものを読み、うっとりしながらこう言うの。――嘘でしょ、私ってこんなに才能があったかしら?ってね」
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「没個性的な人たち(自分を持たない評論家タイプ)」の言い分はこうだ。――「私たちにとって、賢く、辛抱強く、卓越した人間でいることくらい簡単なことはありません。私たちは寛大さと同情という油でギトギトに潤っていますし、呆れるほど公平で、どんなことでも許してしまいます。だからこそ、私たちは自分自身にもっと厳しくするべきなのです。たまにはちょっとした感情を爆発させたり、感情の悪癖をあえて育てたりすべきなのです。それは私たちにとって骨の折れることかもしれませんし、そんな自分の姿を見て裏で失笑しているかもしれません。でも、仕方がありません! 私たちには、これ以外に『自己克服』の方法が残されていないのです。これこそが私たちの禁欲であり、苦行なのですから」……。個性的になること ―― それが「没個性的な人たち」にとっての美徳、というわけだ。
29
ある博士論文の口頭試問にて。――「あらゆる高等教育の目的とは何か?」 ―― 人間を機械にすることです。 ――「そのための手段は?」 ―― 退屈することに慣れさせる(退屈を学ばせる)ことです。 ――「どうやってそれを達成する?」 ―― 『義務』という概念を叩き込むことです。 ――「そのお手本になるのは誰だ?」 ―― 語学者(文献学者)です。彼らはガリ勉を教えますから。 ――「では、完璧な人間とは?」 ―― 国家公務員(官僚)です。 ――「国家公務員のあり方を最も完璧に数式化した哲学はどれだ?」 ―― カントの哲学です。『現象としての国家公務員』を裁く裁判官として、『物自体としての国家公務員』を据えましたから。
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バカになる権利。―― 疲れ果て、ゆっくりと息を吐きながら、おっとりした目をし、物事をあるがままに流している労働者。労働の時代(そして「帝国」の時代!――)である現代では、社会のあらゆる階層でこんな典型的な姿を見かけるが、彼らこそがいま、芸術を ―― 本や、何よりも新聞を ―― 自分のものだと主張している。美しい大自然やイタリアなんて言ったらなおさらだ。ファウストの言う「荒々しい衝動が眠りについた」夜の人間には、避暑地や海水浴、氷河、そしてバイロイト音楽祭が必要なのだ。こういう時代において、芸術には「純粋な愚かさ(おバカさ)」でいる権利がある。精神やウィット、心のための、いわばバカンスのようなものとして。ワーグナーはそれがよく分かっていた。純粋な愚かさこそが、人間を元通りに回復させてくれるのだ。
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養生法(ダイエット)のもう一つの問題。
ユリウス・カエサルが病弱な体質や頭痛に立ち向かうために使った手段。それは、ひたすら歩き回る強行軍、極限までシンプルな食生活、常に屋外で過ごすこと、そして絶え間ない過酷な鍛錬だった。
大ざっぱに言えば、これらすべてが予防策であり、身を守るためのルールなんだ。「天才」と呼ばれる、極めてデリケートで常にフル回転している超高性能なマシンを、壊さないように維持するためのね。
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ある非道徳主義者の独白。
哲学者にとって、人間の「あれこれ欲しがっている(願望を抱いている)姿」ほど、反吐が出るものはない。
もし人間を「実際の行動」だけで見るなら――つまり、迷路のような窮地に陥っても自力で切り抜ける、この上なく勇敢で、ずる賢く、タフな野生動物として見るなら――人間はなんて素晴らしい存在なんだろう! 哲学者だって思わずエールを送りたくなる。
だけど、あれこれ欲しがっている人間、あるいは「こうあるべきだ」という理想像としての人間、そして人間のあらゆる願望や理想そのものを、哲学者は軽蔑する。
もし哲学者がニヒリスト(虚無主義者)になり得るとしたら、それは人間のあらゆる理想の裏側に「空っぽ(虚無)」を見出してしまうからだ。いや、空っぽならまだマシで、そこにあるのはただのくだらなさ、理不尽さ、病的な弱さ、臆病さ、燃え尽きた燃え殻、人生という飲み干したコップの底に溜まった澱(おり)のようなものばかりだからだ。
現実としての人間はこんなにもリスペクトできるのに、なぜ「願望を抱いた」途端に、見下されるような存在になってしまうのか? 現実世界でタフに生きていることの代償を払わされているのだろうか。現実世界での行動や、頭と意志をフルに使った緊張の反動として、空想や不条理の世界で手足を伸ばしてダラダラ休まなければならないのだろうか?
人類がこれまで抱いてきた「こうあったらいいな」という理想の歴史は、言ってみれば人間の「黒歴史(恥部)」だ。あんまりじっくり読み返さない方がいい。
人間を肯定してくれるのは、あくまでその人の「現実」であり、それだけが永遠に人間を正当化してくれる。実際に生きているリアルな人間は、頭の中で描いた理想の人間や、嘘八百でデッチ上げられた夢の中の人間と比べて、どれほど価値があることか!
哲学者にとって、目の上のタンコブなのは、いつだってその「理想の人間」なのだから。
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エゴイズムの自然な価値。
利己心(エゴイズム)の価値は、それを持っている人の「生理学的な価値(生命力)」とイコールだ。ものすごく価値がある場合もあれば、クズみたいに軽蔑すべき場合もある。
私たちは、目の前の個人が「生命の上昇ライン」にいるのか、それとも「下降ライン(衰退)」にいるのかを見極めることができる。それが分かれば、その人のエゴイズムにどれだけの価値があるかの基準も決まる。
もしその人が生命の上昇ラインにいるなら、その価値はとてつもなく大きい。彼と共に生命全体が一歩前進するのだから、彼を保護し、彼にとってベストな環境を整えるためには、極端なまでに過保護になってもいい。
これまで一般の人や哲学者が考えてきたような「個人(インディヴィドゥアル)」という捉え方は、実は間違いなんだ。人間は単独でぽつんと存在するアトム(原子)でもなければ、単なる「鎖の1つの輪」でもないし、過去から受け継いだだけの存在でもない。その人自身が、そこに至るまでの「生命の太い一本のラインそのもの」なのだから。
逆に、もしその人が下降ライン(衰退や、慢性的な劣化、病気)を歩んでいるなら、その価値は極めて低い。まともな倫理観があるなら、そうした「生命力の溢れるまっとうな人々」から奪うものを最小限に抑えるべきだ。彼らは、ただの寄生虫なのだから。
(ちなみに、大まかに言えば、病気というのは衰退の「原因」ではなく、すでに衰退が始まっていることの「結果」なんだ。)
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キリスト教徒とアナーキスト。
社会の落ちこぼれ層の代弁者であるアナーキストが、いかにももっともらしい怒りをもって「権利」や「正義」、「平等の権利」を要求するとき、彼はただ自分の教養のなさ(無カルチャー)に振り回されているだけだ。彼は、自分がなぜ苦しんでいるのか、何が足りないのか(要するに「生命力」が足りないこと)を理解できていない。
彼の中では「原因を探したい欲求」が暴れている。自分がこんなに惨めなのは、誰かのせいに違いない、と。
また、その「もっともらしい怒り」をぶちまけること自体が、彼にとっては快感なのだ。悪口を言うのは弱者にとって最高の娯楽であり、ちょっとした権力を握ったような全能感を味わえるからね。
愚痴を言ったり、被害者ぶったりすることすら、人生に生きがいを与えてくれる。だからこそ生きていられるのだ。どんな愚痴の中にも、よく見れば「復讐」というスパイスが隠されている。自分が惨めなこと(時には自分がゲスであることすら)を、自分とは違う恵まれた人たちのせいにし、「不当な特権だ」と責め立てる。
「俺がゲス(クズ)なら、お前もゲスになるべきだ」――このロジックで彼らは革命を起こす。
そもそも、愚痴をこぼすこと自体が絶対に良くない。それは弱さの証拠だからだ。自分が惨めな原因を他人のせいにするか(社会主義者がこれだ)、それとも自分のせいにするか(キリスト教徒がこれだ)に、本質的な違いはない。
共通しているのは、そして醜いのは、「自分が苦しんでいるのは誰かのせいだ」と思い込もうとすることだ。要するに、苦痛を和らげるために「復讐というハチミツ」を自分に処方しているだけなんだ。
この復讐心(快楽への欲求)を満たすターゲットなんて、ぶっちゃけ何でもいい。苦しんでいる人間は、八つ当たりする理由をどこにでも見つける。キリスト教徒なら、さっきも言ったように、その原因を「自分自身」の中に見出すだけだ。
キリスト教徒もアナーキストも、どちらもデカダン(退廃者)に過ぎない。
キリスト教徒がこの「世界」を糾弾し、中傷し、汚すとき、それは社会主義の労働者が「社会」を糾弾し、中傷し、汚すのと全く同じ本能から来ている。キリスト教の「最後の審判」なんて、まさに復讐という甘い慰めに他ならない。社会主義者が夢見る「革命」を、ちょっと遠い未来のあの世に先送りしただけだ。
そもそも「あの世(来世)」なんて、この世(現世)を汚すための道具じゃなければ、一体何のためにあるっていうんだ?
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デカダン道徳の批判。
「利他主義的」な道徳、つまり自分のエゴ(自己愛)をダメにしてしまう道徳は、どんな状況であれ危険信号だ。これは個人にも言えるし、民族にも当てはまる。
エゴが失われ始めたとき、一番大事なものが失われているのだ。自分にとって有害なものを本能的に選んでしまったり、「見返りを求めない」動機にそそられたりするのは、デカダン(退廃)の定義そのものだ。
「自分の利益を求めない」というのは、生理学的な本音を隠すための道徳的なイチジクの葉(隠し蓑)に過ぎない。本当の本音は、「自分にとって何が利益なのか、もう分からなくなってしまった(本能の崩壊)」なのだ。
人が利他主義(アルトルイズム)に走るとき、その人はもう終わっている。
デカダンは、素直に「私にはもう価値がない」とは言わずに、道徳という嘘を使ってこう言うのだ。
「何ものにも価値はない、――人生なんて生きる価値はない」と。
こういう判断は、最終的にものすごい害悪になる。なぜなら伝染するからだ。社会という病んだ土壌の上で、この考え方は熱帯雨林のようにあっという間に生い茂り、時には「宗教(キリスト教)」として、時には「哲学(ショーペンハウアーの哲学)」として蔓延する。
場合によっては、こうした腐敗から生じた毒の木々が、その毒気で何千年間にもわたって人類の生命を汚し続けることだってあるんだ。
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医者への説教。 ── 病人ってのは、社会のパラサイト(寄生虫)なんだよ。ある状態までいったら、これ以上生き長らえるのは人としてみっともない。人生の意味も、生きる権利も失ってしまったのに、医者や治療にしがみついてビクビクしながら生き延びるなんて、社会から軽蔑されて当然なんだ。むしろ医者こそが、その軽蔑のメッセンジャーになるべきなんだよ。処方箋じゃなくて、毎日「自分にうんざりする薬」を患者に投与してやるくらいでちょうどいい。
医者には新しい責任を持たせるべきだ。命の価値が高まっていくとき、つまり未来に向けて命がのぼりつめていくとき、劣化していく命を容赦なく押し退け、脇に追いやらなきゃいけない局面がある。たとえば、子供を残す権利、生まれる権利、生きる権利についてね。
堂々と生きることができなくなったなら、堂々と死ぬべきだ。自らの意志で、最高のタイミングで、頭もしっかりしていて、喜びを感じながら、子供たちや目撃者に囲まれて死ぬ。これなら、見送る側と見送られる側がちゃんと最後のお別れを言えるし、自分の人生で何を成し遂げ、何を望んだのかを振り返る「人生の総決算」ができる。
キリスト教が演出してきた、あの惨めで、おぞましい「死に際の茶番」とは大違いだ。キリスト教が、死にゆく者の弱みにつけ込んで良心を脅迫し、死に方そのものを利用して「その人間や過去の人生」に審判を下してきた悪行は、絶対に忘れてやらない。
偏見による臆病さをすべて撥ね退けて、まずは「自然死」と呼ばれるものの正しい認識、つまり生理学的な事実を取り戻さなきゃいけない。自然死なんて言っているけど、結局のところあれだって「不自然な死」、つまり間接的な自殺なんだ。人は他人によって滅ぼされるんじゃない、自分自身によって滅びるんだ。ただ、自然死ってのは一番惨めな条件での死、つまり不自由で、タイミングが悪くて、臆病者の死なんだ。
生を愛するからこそ、死は違う形で迎えるべきだ。自由で、意識的で、偶然に襲われるのではなく、自ら選ぶ死をね。
最後に、悲観主義の旦那方やデカダン(退廃主義者)たちにアドバイスを。僕たちは生まれてくることを拒否することはできない。でも、この間違い(時には生まれること自体が間違いだからね)を帳消しにすることはできる。
自分を消し去る(自殺する)ことは、この世で最もリスペクトに値する行為だ。それによって、人はほぼ「生きるに値する存在」になる。社会にとって──いや、生そのものにとって、禁欲だの貧血気味の美徳だのでダラダラ生きられるより、その方がよっぽどプラスになる。目障りな姿を他人の目から消し去り、人生の足枷を取り除いてあげるわけだからね。
純粋でガチな悲観主義ってのは、悲観主義の旦那方が自らを否定(自殺)することによって初めて証明されるんだ。ショーペンハウアーのように、ただ頭の中で「意志と表象」を使って生を否定するだけじゃ足りない。もう一歩論理を進めて、まずはショーペンハウアー自身を否定しなきゃいけないんだ。
ちなみに、悲観主義は伝染しやすいけれど、だからといってその時代や人々の病気度合いを増やすわけじゃない。ただの病気の現れなんだよ。コレラにかかるように、悲観主義に陥る。要するに、最初からそれにかかるくらい体が弱っているってこと。悲観主義のせいでデカダンが増えるわけじゃない。統計データを見ても、コレラが大流行した年だからといって、全体の年間死亡者数が他の年と比べて劇的に増えるわけじゃないのと同じさ。
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僕たちは本当に道徳的になったのか。 ── 僕が提唱した「善悪の彼岸」という概念に対して、予想通り、道徳的なバカたちが全力で牙を剥いてきた。この「道徳的なバカさ」ってのは、ドイツでは「道徳そのもの」と信じ込まれているんだけどね。この件については面白い話がたくさんある。
まず彼らが言ってきたのは、今の時代は「道徳的な判断力」において過去より明らかに優れていて、僕たちは進歩しているってことだ。だから、僕がチェーザレ・ボルジアを「高貴な人間」とか「超人」みたいに持ち上げるのは、とんでもない間違いだというわけだ。
スイスの『ブント』紙の編集者に至っては、僕の挑戦的な勇気には敬意を表しつつも、僕の本の意図を「あらゆるまともな感情の廃止を提案している」と解釈しやがった。どうもご丁寧に!
お返しに、僕から一つ問いを投げかけたい。「僕たちは本当に道徳的になったのか?」とね。世間のみんながそう信じ込んでいる時点で、すでにそれは怪しい(反論の余地がある)んだよ。
現代の僕たちは、とても繊細で傷つきやすく、お互いにめちゃくちゃ気を使っている。だから、自分たちが体現しているこの「優しい人間らしさ」や、お互いをいたわり、助け合い、信頼し合うマインドこそがポジティブな「進歩」であり、ルネサンス期の人々を遥かに超えた証拠だと思い込んでいる。
でも、どんな時代だって自分たちの時代が一番進歩していると思い込むものだ。確かなのは、僕たちはルネサンス期の環境になんて放り込まれたら生きていけないし、想像するだけで音を上げるってこと。僕たちの神経(筋肉なんて言うまでもなく)は、あのリアルな現実には耐えられないんだ。
でも、この「耐えられない(弱さ)」は、進歩を証明しているわけじゃない。ただ、僕たちが後発の、弱くて繊細で傷つきやすい存在に変化したというだけで、そういう弱さから「お互いに気を使う道徳」が必然的に生まれてきただけなんだ。
もし僕たちの繊細さや、生理的な老いを差し引いてしまったら、この「人間化」という道徳は瞬時に価値を失う。そもそも、道徳それ自体に価値なんてないんだ。そんな道徳は、ただの自己卑下にすぎなくなる。
それに、岩に少しぶつかっただけで痛がるような、綿をたっぷり詰めた僕たちの「生ぬるい人道主義」を見たら、チェーザレ・ボルジアの同時代人たちは腹を抱えて大爆笑するに違いない。実際、僕たちの現代的な「美徳」は、客観的に見たらめちゃくちゃ滑稽なんだよ。
敵対心や警戒心の減少──これこそが僕たちの言う「進歩」なわけだけど──は、生命力(バイタリティ)そのものが衰退している結果にすぎない。これだけ条件が厳しく、老い衰えた生存を維持するには、過去の100倍も苦労し、注意深くならなきゃいけないんだ。だからお互いに助け合い、みんなが「ちょっとした病人」でありながら「お互いの看護師」をやっている。
これを彼らは「美徳」と呼ぶ。でも、もっと生命力に溢れ、贅沢で、エネルギーがみなぎっていた時代を知る人々なら、これを「臆病」「惨めさ」「おばあちゃんの道徳」と呼んだはずだ。
「マナーや道徳がマイルドになったのは、生命が衰退した結果である」──これが僕の主張であり、新しい見方だ。逆に、マナーが厳しくて恐ろしいのは、生命力が溢れ返っている結果かもしれない。エネルギーが有り余っているからこそ、リスクを冒し、挑発し、浪費することも許されるんだ。昔の人にとっての人生のスパイスは、僕たちにとっては毒薬なんだよ。
無関心でいること(これも一種の強さだ)についても、僕たちは年老いすぎて、遅れすぎている。僕たちの「同情の道徳」──僕が真っ先に警告した、いわば「道徳的インプレッショニズム(印象主義)」──は、デカダンなものすべてに特有の、生理的な過敏さの現れにすぎない。
ショーペンハウアーが同情の道徳を科学的に見せようとした運動(大失敗だったけどね!)は、まさに道徳におけるデカダン運動そのものであり、キリスト教道徳と根っこで深くつながっている。強靭な時代や高貴な文化において、同情や「隣人愛」、自己や自己肯定感の欠如は、軽蔑すべきものとされていたんだ。
時代というのは、その時代が持っているポジティブなエネルギーで測定すべきだ。そう考えると、あの浪費的で破滅的だったルネサンス期が「最後の偉大な時代」であり、不安な自己保身と隣人愛、労働や謙虚さ、生真面目さ、科学的オタク精神といった「美徳」に凝り固まった、チマチマして機械的な現代の僕たちは、ただの「弱い時代」なんだよ。
僕たちの美徳は、僕たちの弱さによって引き起こされ、条件づけられているだけだ。
「平等」──ある種のフラット化、理論上では「平等の権利」なんて表現されているものは、本質的に衰退の兆候だ。人と人、階級と階級の間のギャップ、多様なタイプ、自分自身でありたいという意志、他と一線を画したいという意志──僕が「距離のパトス」と呼ぶものは、強い時代には必ず存在する。
今の時代、極端なもの同士を引き絞るテンション(緊張感)はどんどん小さくなり、最後には極端なもの同士が薄まって、みんな同じようになっていく。
「ドイツ帝国」も含めて、僕たちの政治理論や憲法はすべて、衰退の結果であり、そうなるしかなかった必然なんだ。デカダンの無意識の影響力は、個々の科学の理想にまで君臨している。
イギリスやフランスの社会学に対する僕の不満は、彼らが「社会の衰退した姿」しか経験的に知らず、自分たちの衰退本能をそのまま社会的な価値判断の基準にしちゃっていることだ。
生命力の衰退、つまり組織化する力(区別し、ギャップを広げ、上下関係を作る力)の減少が、現代の社会学では「理想」として定式化されている。
社会主義者たちはデカダンだ。でも、ハーバート・スペンサー旦那だってデカダンだ。彼は利他主義の勝利を「望ましいこと」だと思っているんだからね!
38
僕の「自由」の定義。 ── 物事の価値は、それを手に入れて何を得たかではなく、それに対してどれだけの代償を払ったか(いくらコストがかかったか)で決まることがある。
例を挙げよう。リベラル(自由主義的)な制度は、それが手に入った瞬間にリベラルであることをやめてしまう。その後は、自由をこれ以上なく徹底的に破壊する害悪にしかならない。
その制度が何をもたらすかは、みんな知っての通りだ。それは「権力への意志」を削ぎ落とし、山と谷を平らにして平坦化することを道徳へと祭り上げ、人間を小さく、臆病で、快楽主義者にする。要するに、常に「群れ動物」を勝利させるんだ。リベラリズムとは、ドイツ語で言えば「家畜化(群れ動物化)」のことだ。
ところが、同じ制度でも、それを手に入れようと戦っている最中は、全く逆の効果をもたらす。その時は、実際にものすごく自由を促進するんだ。もっと細かく見れば、その効果をもたらしているのは「戦争(戦い)」そのものだ。リベラルな制度を勝ち取るための戦いが、戦いであるがゆえに、非リベラルな本能を生き残らせる。
そして、戦争こそが自由への教育なのだ。
だって、自由って何だ?
自分自身に責任を持つ意志があること。僕たちを隔てる距離をキープし続けること。苦労や厳しさ、欠乏、さらには人生そのものに対して無頓着になること。自分の大義のためなら、自分自身も含めて人間を犠牲にする覚悟があること。
自由とは、男らしく、戦いや勝利を喜ぶ本能が、他の本能(たとえば「幸福」への欲求など)を支配している状態を意味する。
自由になった人間、ましてや自由になった精神(フリー・スピリット)は、商売人やキリスト教徒、牛、女、イギリス人、その他の民主主義者たちが夢見るような、あの小綺麗な「福祉(ぬるま湯)」を足蹴にする。自由な人間とは、戦士なのだ。
個人や民族において、自由は何によって測られるのか?
それは、克服すべき「抵抗」の大きさであり、トップに立ち続けるためにかかる「労力」の大きさだ。
最もハイレベルな「自由な人間」のタイプは、常に最大の抵抗が克服されている場所に見出される。つまり、独裁政治のわずか5歩手前、奴隷状態に転落する危険のすぐそばだ。
心理学的に言えば、ここでいう「独裁者」とは、最大限のコントロールと規律を要求してくる、自分の中の容赦なく恐ろしい本能のことだ(最高のモデルはジュリアス・シーザーだね)。これは政治的にも真実で、歴史を振り返れば一目瞭然だ。
価値ある民族、あるいは価値ある民族に成長した国々は、リベラルな制度のもとでそうなったわけじゃない。彼らをリスペクトされる存在に育て上げたのは「大きな危機」だ。危機があって初めて、僕たちは自分のポテンシャルや美徳、武器、知性を知り、強くあることを強制される。
第一原則:「強くあらねばならない状況」が必要なのだ。そうでなければ、絶対に強くはなれない。
これまでに存在した、強い人間(それも最強の人間)を育てる最高の温床、たとえばローマやヴェネツィアのような貴族制社会は、僕と同じ意味で自由を理解していた。自由とは、持ったり持たなかったりするもの、欲するもの、そして勝ち取るものなのだ。
39
現代性の批判。 ── 僕たちの制度はもう使い物にならない。これについてはみんなの意見が一致している。でも、それは制度のせいじゃなくて、僕たちのせいなんだ。
制度を生み出す本能がすっかり失われてしまったから、僕たちは制度そのものを失いつつある。僕たちが制度に適合しなくなってしまったんだ。
民主主義というものは、いつの時代も「組織化する力」が衰退した形だ。僕はすでに『人間的な、あまりに人間的な』(1巻318節)で、ドイツ帝国のような中途半端なものも含めて、現代の民主主義を国家の衰退形態として描いている。
制度が成り立つためには、ある種の意志、本能、命令(それも意地悪なレベルで反リベラルなもの)が必要だ。それは伝統への意志、権威への意志、何百年先までの責任への意志であり、過去と未来の何世代にもわたる連帯の意志だ。
この意志があれば、ローマ帝国や、現代で唯一「耐久力」を持ち、待つことができ、未来を約束できるパワーである「ロシア」のようなものが誕生する。ロシアは、ドイツ帝国の建国によって神経症的な危機に陥っている、あの哀れなヨーロッパの小国分立主義とは真逆のコンセプトだ。
西洋全体は、制度を育て、未来を育てるための本能をすでに失っている。西洋の「現代精神」にとって、これほど虫の好かないものはないだろう。みんなその日暮らしで、ものすごいスピードで、ものすごく無責任に生きている。そして、これこそを「自由」と呼んでいるんだ。
制度を制度たらしめるものは軽蔑され、憎まれ、拒絶される。人々は「権威」という言葉が少しでも聞こえただけで、新しい奴隷制の危険に怯える。僕たちの政治家や政党の価値観におけるデカダン(退廃)はそこまで進んでいる。彼らは本能的に、解体するもの、終わりを早めるものばかりを選んでいるんだ。
その証拠が現代の結婚だ。
現代の結婚からは、あらゆる「理性的根拠」が消え去っている。でも、これは結婚制度そのものへの反論ではなく、現代性への反論なんだ。
結婚の理性的根拠は、かつては「男の法的な単独責任」にあった。これによって結婚にはずっしりとした重みがあったが、今や両足を引きずって歩いている状態だ。
結婚の理性的根拠は、原則として「離婚できないこと」にあった。これによって、感情や情熱、その場のノリといった偶然に対抗して、結婚という約束が強さを持つことができた。また、パートナー選びにおける「家族の責任」にも理性的根拠があった。
ところが、恋愛結婚をどんどん容認していったことで、結婚の土台、つまり結婚を「制度」たらしめていたものそのものを排除してしまったんだ。
制度というものは、個人の気まぐれ(アイデンティティの偏り)の上に築くことなんて絶対にできない。結婚は「恋愛」の上に築くものではないんだ。
結婚は、性衝動、所有衝動(妻と子を自分の所有物にする)、そして支配衝動の上に築かれるものだ。支配衝動は、常に「家族」という最小の支配単位を組織し、手に入れた権力、影響力、富を生理的にもキープするために子供や相続人を必要とする。長期的なタスクをこなし、何世紀にもわたる本能の連帯を準備するためにね。
「制度としての結婚」は、最も大きく最も永続的な組織形態をイエスと受け入れることを前提としている。もし社会全体が、何世代も先の未来に対して責任を持てないのだとしたら、結婚なんてそもそも何の意味もない。
現代の結婚はその意味を失った。だから、廃止されつつあるんだ。
40
労働者問題。 ── 現代のあらゆるおバカな行動の原因である「本能の劣化」が最もよく表れているのが、「労働者問題」なんてものが存在していること自体だ。
確かなことについては疑問を挟まない──これが本能の第一の絶対命令だ。
ヨーロッパの労働者を「問題」にしてしまった今、彼らをどうしたいのか、僕にはさっぱりわからない。彼らは現状に満足しすぎていて、一歩一歩、さらなる要求を、より図々しく突きつけてくる。最後には数(マジョリティ)の力で押し切るだろう。
ここに、慎ましく自己満足している人間、いわば「中国人タイプ」の労働者階級が誕生するという希望は完全に消え去った。そして、それこそが理に適っていたし、絶対に必要なことだったんだ。
それなのに何をした?
そんな労働者階級が成立する前提(本能)を、最も無責任な軽薄さによって、根本から叩き潰してしまった。労働者に軍隊の適性を与え、組合結成の権利を与え、選挙権を与えてしまった。これじゃあ、労働者が自分の現状を「不当な苦境(道徳的に言えば不公平)」と感じるようになったとしても、何の不思議もない。
一体どうしたいんだ?(もう一度聞くよ)。
目的を望むなら、手段も望まなければならない。奴隷が欲しいと言いながら、彼らを主人になるように教育するなんて、ただのバカのすることだ。
41
「私が言っているのではない自由……」現代のような時代に、自分の本能の赴くままに生きるというのは、もう一つの災難でしかない。こうした本能はお互いに矛盾し合い、邪魔し合い、ぶつかり合って自滅してしまう。私はすでに「近代(モダン)」を生理学的な自己矛盾と定義した。
本来の教育の理屈から言えば、鉄のような強い圧力によって、これらの本能システムのうち少なくとも一つを麻痺させ、別の本能が力を蓄え、強くなり、支配権を握れるようにすべきなのだ。今の時代、まともな「個人」を成り立たせるためには、まずその不要な部分を刈り取って削ぎ落とさなければならない。可能にする、つまり「まともな全体にする」ということだ。
しかし、現実はまったく真逆だ。独立だの、自由な発展だの、野放し(レッセ・アレ)だのといった要求を一番熱心に叫ぶのは、皮肉にも、どんなに厳しい手綱で縛っても足りないような連中なのだ。これは政治でも芸術でもまったく同じことが言える。だが、これこそがデカダンス(退廃)の症状なのだ。私たちが使う近代的な「自由」という概念は、人間の本能が退化したことを示す、さらなる証拠にすぎない。
42
信仰が必要とされる場所。ーー道徳家や聖人たちの間で、「誠実さ」ほどお目にかかれないものはない。彼らは口では真逆のことを言うだろうし、本気で自分を誠実だと思い込んでいるのかもしれない。というのも、意識的な偽善よりも、何かしらの信仰のほうが役に立ち、効果的で、説得力がある場合、本能の働きによってその偽善はあっという間に「純真さ」へと化けてしまうからだ。これが偉大な聖人たちを理解するための第一原則である。
もう一種の聖人である哲学者たちも同じだ。彼らの商売柄、都合の良い「特定の真理」しか認めないようになっている。つまり、自分たちの商売が世間に公認されるような真理ーーカント風に言えば「実践理性」の真理だけを認めるのだ。彼らは何を証明すべきかをあらかじめ知っており、その点において実に抜け目がない。お互いが「この真理」に同意しているかどうかで仲間を見分けるのだ。
「嘘をついてはならない」ーーこれをわかりやすく言えばこういうことだ。「哲学者先生、くれぐれも本当のことを言っては決していけませんよ……」
43
保守主義者への耳打ち。ーー昔の人は知らなかったが、現代の私たちが知っている(あるいは知るべき)こと。それは、どんな形であれ、どんな程度であれ、過去への後退や逆戻りは絶対に不可能だということだ。少なくとも私たち生理学者はそれをよく知っている。
しかし、聖職者や道徳家はみんなそれを信じて疑わなかった。人間を昔の「道徳の基準」に引き戻そうとし、無理にねじ込もうとした。道徳とはいつだって、規格に合わないものを無理やり切ったり引き伸ばしたりする「プロクルステスのベッド(無理な枠はめ)」だったのだ。
政治家たちもこの点では道徳家たちの真似をしてきた。今日でも、あらゆる物事を後退(カニの横歩き)させることを夢見ている政党がある。だが、カニのように後ろ向きに歩く自由など、誰にも残されていない。どうしようもないのだ。前に進むしかない。つまり、一歩一歩デカダンス(退廃)の泥沼を進んでいくしかない(これが私の言う近代の「進歩」の定義だ……)。この流れを一時的に食い止めることはできる。そして食い止めることで、かえって退化のエネルギーをため込み、より激しく、より突然に爆発させることはできる。できるのはせいぜいそれくらいだ。
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私の「天才」の定義。ーー偉大な人物というのは、偉大な時代と同じように、膨大なエネルギーが凝縮された「爆発物」だ。彼らが生まれる歴史的・生理的な前提条件は、長い時間をかけてエネルギーが蓄積され、節約され、保存され、そして「長い間爆発が起きなかった」ことにある。
蓄積された緊張が限界に達すると、ほんのささいな、偶然のきっかけだけで、「天才」や「大事業(行為)」、大いなる運命が世に解き放たれる。そうなれば、周囲の環境だの、時代背景だの、「時代の精神」だの、「世論」だのといったものは、もはやどうでもよくなる!
ーーナポレオンの例を見てみよう。革命期のフランス、そしてそれ以前のフランス社会は、本来ならナポレオンとは真逆のタイプの人間を生み出すはずだったし、実際に生み出していた。だがナポレオンは違った。彼は、フランスで霧散し崩壊しつつあった文明よりも、はるかに強く、長く、古い文明の跡継ぎだった。だからこそ、彼はこの地を支配し、唯一無二の支配者になれたのだ。
偉大な人間が現れるのは必然であり、彼らが現れる時代というのは偶然にすぎない。彼らがほとんど常に時代を支配するのは、単に彼らのほうが強く、古く、より長くエネルギーを蓄積してきた存在だからだ。天才とその時代の関係は、「強者と弱者」、あるいは「年長者と若者」の関係に似ている。時代というものは、天才に比べれば、相対的にいつもはるかに若く、薄っぺらく、未熟で、不安定で、子供っぽいものだ。
ーーこれについて、今のフランス(ドイツもそうだが、それはどうでもいい)でまったく異なる考え方がされていること、すなわち「環境決定論(ミリュー理論)」というノイローゼ患者のような理論が神聖視され、さも科学的であるかのように語られ、生理学者までがそれを信じていることーーこれは「鼻持ちならない」し、悲しい気持ちにさせられる。
ーーイギリスでも理解は似たり寄ったりだが、これについては誰も嘆きはしない。イギリス人が天才や「偉人」を理解する方法は二つしかない。バックルのような「民主主義的」な見方か、カーライルのような「宗教的」な見方のどちらかだ。
ーー偉大な人間や偉大な時代がはらむ危険は、並外れて大きい。あらゆる種類の疲弊と不毛さが、彼らのすぐ後ろに迫っている。偉大な人間とは一つの「終着点」なのだ。偉大な時代(たとえばルネサンスなど)も、一つの「終わり」なのだ。
天才はーー作品においても、行動においてもーー必然的に「浪費家」である。自分を使い果たすことこそが、その偉大さなのだ……。自己保存の本能など、どこかへ行ってしまっている。溢れ出る圧倒的なエネルギーの圧力により、自分を守ったり警戒したりすることなど、まったくできなくなっているのだ。
世間はこれを「自己犠牲」と呼び、彼の「ヒロイズム」や自分の幸福への無関心、思想や大義や祖国への献身をたたえる。だが、これらはすべて誤解だ……。彼はただ溢れ出し、決壊し、自分をすり減らし、身を削っているだけだ。川が氾濫するのを止められないのと同じように、避けがたい運命として、無意識にそうしている。
しかし、人々はこうした「爆発物」から多大な恩恵を受けるため、見返りとして、たとえば「超然とした特別な道徳」といった多くのものを彼らに与えてきた。……まったく、人間の感謝の示し方というのはいつもそうだ。彼らは自分たちの恩人を根本から誤解しているのである。
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犯罪者と、その同類。ーー犯罪者のタイプとは、悪条件のもとに置かれた「強い人間」、つまり、病気にさせられた強い人間の姿である。彼に欠けているのは「荒野」だ。強い人間の本能である武器や防衛手段が、すべて正当なものとして通用するような、もっと自由で危険な自然や生き方だ。
彼の持つ美徳は社会から追放され、生まれ持った最も生き生きとした衝動は、すぐに疑惑、恐怖、不名誉といった、重苦しい負の感情と結びついてしまう。だが、これこそが生理的な退化を招くお決まりのレシピ(処方箋)なのだ。自分が最も得意で、一番やりたいことを、常に緊張し、警戒し、ずる賢く隠れてやらなければならない人間は、活力を失い、貧血状態になってしまう。そして、自分の本能のせいでいつも危険や迫害、破滅ばかりをもたらされるため、本能に対する感情そのものがねじ曲がり、それを破滅的なものと感じるようになる。
社会ーーこの飼い慣らされ、凡庸で、牙を抜かれた現代社会こそが、山から下りてきたような、あるいは荒海での冒険から戻ってきたような野生の人間を、必然的に犯罪者へと堕落させる張本人なのだ。あるいは、ほぼ必然的に、と言うべきか。なぜなら、そうした人間が社会よりも強く、ねじ伏せてしまうケースもあるからだ。コルシカ島出身のナポレオンが、その最も有名な例である。
この問題に関して、ドストエフスキーの証言は極めて重要だ。ちなみに、ドストエフスキーは私が何かを学ぶことができた唯一の心理学者である。彼との出会いは、スタンダールを発見したこと以上に、私の人生における最高の幸運の一つだ。浅薄なドイツ人を軽蔑する権利が十二分にあったこの深遠な男は、長い間ともに暮らしたシベリアの囚人たち(もはや社会への復帰の道がない重罪犯ばかり)を、彼自身が予想していたのとはまったく違う形で捉えた。彼らを、ロシアの土壌が育んだ「最も上質で、頑丈で、価値ある原木から切り出された人間たち」のように感じたのだ。
犯罪者の例を一般化してみよう。何らかの理由で世間から認められず、自分が有益でも役に立つ存在でもないと思い知らされている人々を想像してほしい。ーー自分が他者と対等ではなく、社会の爪弾き者、価値のない者、汚らわしい存在だとみなされる、あの「チャンダーラ(不可触民)の感情」だ。
こうした人々は、考え方も行動もどこか地下世界の暗い陰を帯びるようになる。太陽の光を浴びて生きている人々に比べ、彼らの言動はすべて青白く色あせて見える。しかし、私たちが今日たたえている生き方のほぼすべてが、かつてはこうした「半分墓場のような陰鬱な空気」の中で暮らしていたのだ。科学者、芸術家、天才、自由思想家、役者、商人、そして偉大な冒険家たちも……。
聖職者が最高ランクの人間とされていた時代は、あらゆる価値あるタイプの人間が不当に過小評価されていた。だが、聖職者が最も卑しい存在、私たちのチャンダーラ、最も嘘つきで最も下劣な人種とされる時代が必ず来る。これは私が約束しよう。
私が注目してほしいのは、地球上(少なくともヨーロッパ)で歴史上もっとも穏やかな道徳の支配下にある現在でさえ、少しでも道から外れたり、あまりにも長く社会の底辺に這いつくばったり、一風変わった、底の知れない生き方をしたりするだけで、あの「犯罪者」という完成されたタイプに近づいてしまうということだ。
精神の革新者たちはみな、一時期、その額にチャンダーラの青白く不吉な刻印を刻まれる。それは世間からそう見られるからではなく、これまでの常識や、世間で称賛されているすべてのものとの間に、自分自身が恐ろしいほどの断絶を感じるからだ。ほぼすべての天才は、その成長過程において「カティリナ的な生き方」ーーすでに確立され、もはや変化することのないすべてに対する憎悪、復讐心、そして反逆の感情を経験する。
カティリナ(反逆者)ーーそれこそが、すべてのカエサル(支配者)が生まれる前の姿なのだ。
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ここなら邪魔するものはない。 ――哲学者が黙り込むとき、それは魂の気高さゆえかもしれない。彼が矛盾したことを言うとき、それは愛ゆえかもしれない。真理を知る者が嘘をつくとき、それは一種の礼儀かもしれない。
「自分が抱えている不安を周りに撒き散らすのは、偉大な魂の持ち主にふさわしくない」という言葉があるが、これはなかなか鋭い。ただ、こう付け加えるべきだ。「最もゲスなものを前にしても恐れないこともまた、魂の偉大さであり得る」と。
愛する女はプライドを捧げる。愛する「知る者」は、もしかしたら人間性を捧げるかもしれない。そして、愛してしまった神は、ユダヤ人になった……。
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美しさは偶然ではない。 ――ある人種や一族の美しさ、そのすべての立ち居振る舞いに宿る気品や優美さは、日々の努力の賜物だ。それは天才と同じで、何世代にもわたって積み重ねられた努力の最終成果なんだ。
「センスの良さ(良き趣味)」のためには、大きな犠牲を払い、多くのことを行い、また多くのことを諦めてこなければならなかったはずだ(17世紀のフランスは、この両方において実に見事だった)。社交、場所、衣服、性的な満足にいたるまで、常に「選び抜くルール」を持ち、利益や習慣、世間の意見、怠惰よりも、美しさを優先してきたはずだ。
最大のルールはこれだ。「自分自身に対しても、だらしなくしないこと」。
素晴らしいものは、とてつもなくコストがかかる。そして、「すでにそれを持っている者」と「これから手に入れようとする者」はまったくの別物だ、というルールは常に成り立つ。すべての上質なものは「遺伝(相続)」なのだ。遺伝でないものは不完全であり、単なる始まりにすぎない。
キケロの時代のアテネでは、男や若者たちのほうが女性よりもはるかに美しかったそうで、キケロ自身もそれに驚いたと書き残している。だが、美のために男性陣が何世紀にもわたって、どれほどの努力と厳しさを自分に課してきたことか!
ここでアプローチを間違えてはいけない。単に感情や考え方をしつけるだけでは、ほぼゼロに等しい(これこそドイツ流教育の大きな勘違いであり、完全にまやかしだ)。まずは「身体」を納得させなければならない。
堂々とした洗練された立ち振る舞いを厳格にキープし、「だらしなくしない」人たちとだけ付き合うようにする。それだけで、十分に堂々とした洗練された人間になれる。二、三世代もすれば、すべてはすっかり内面化される(身につく)ものだ。
民族や人類の運命を決めるのは、文化を「正しい場所」から始めるかどうかだ。神父やそのまがいの連中が信じ込ませた不吉な迷信のように「魂」から始めてはいけない。正しいスタート地点は、身体、立ち振る舞い、食事、生理機能であり、残りはそこから自然についてくる。
だからこそ、ギリシャ人は歴史上、最初の「本物の文化」であり続けた。彼らは何が必要かを知り、それを実行した。逆に、身体を軽蔑したキリスト教は、これまでの人類にとって最大の不幸だったんだ。
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私の言う進歩。 ――私も「自然への回帰」を口にするが、それは「後ろに戻る」ことではなく、「上に登る」ことだ。高くて自由で、時には恐ろしくもある本物の「自然」や「自然さ」へと登りつめること。大きな課題を前にして、余裕で立ち向かえるような強さのことだ。
たとえるなら、ナポレオンは私の言う「自然への回帰」の典型だ(戦術や、軍人ならよく知っている戦略の面で特にそうだ)。
だが、ルソーは一体どこに戻りたかったのだろう? ルソーという最初の近代人は、理想主義者でありながら下衆(ゲス)という二面性を持っていた。彼は自分の醜い姿に耐えるために、道徳的な「尊厳」を必要としたんだ。抑えきれない虚栄心と、自己嫌悪で病んでいた。
この新時代の入り口に居座った怪物も、「自然への回帰」を望んでいた。もう一度聞くが、彼はどこへ戻りたかったのだ?
私はフランス革命のなかにいるルソーを今でも憎んでいる。あの革命は、理想主義と下衆の二面性が世界史規模で現れたものだ。革命の血生臭い茶番劇やその「非道徳性」はどうでもいい。私が憎むのは、ルソー的な道徳観だ。いわゆる革命の「真理」であり、それがいまだに影響力を持ち、底の浅い凡俗な連中を丸め込んでいる。
「平等」の教えだと! これほど悪質な毒はない。なぜなら、まるで正義そのものが語っているかのように見えながら、実際には正義の終わりを意味するからだ。
「等しい者には等しいものを、等しくない者には等しくないものを。これこそが正義の本当の言葉であり、したがって、等しくないものを決して等しく扱ってはならない」。
この平等の教えの周りであれほど陰惨で血生臭いことが起きたせいで、この近代屈指の「理念」には一種の後光や輝きが備わってしまった。その結果、見世物としての革命は、最も気高い精神の持ち主たちさえも魅了してしまった。だが、だからといって革命をリスペクトする理由にはならない。
この革命を、感じるべき正しい感覚――すなわち「嫌悪」をもって受け止めた人物を、私は一人しか知らない。ゲーテだ。
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ゲーテ。 ――彼はドイツの出来事ではなく、ヨーロッパの出来事だ。自然への回帰、ルネサンス的な自然さへの上昇によって、18世紀を克服しようとした壮大な試みであり、18世紀という時代による一種の自己克服だった。
彼はその時代の最も強い本能(センチメンタリズム、自然崇拝、歴史軽視、理想主義、非現実性、革命志向――最後のものは非現実性の一形態にすぎないが)を内に宿していた。彼は歴史、自然科学、古典古代、そしてスピノザ、何よりも実践的な活動を味方につけた。自分の周りを閉じた地平線で囲み、人生から逃げるのではなく、そのなかに身を投じた。臆することなく、できるだけ多くのものを引き受け、背負い、取り込んだ。
彼が求めたのは「全体性(トータリティ)」だった。彼は理性、感性、感情、意志の分裂(ゲーテとは対極にいるカントが、最も退屈なスコラ学風に説いたもの)と戦い、自分を丸ごとの存在へと鍛え上げ、自分自身を創り出した。
非現実的な考え方が支配していた時代にあって、ゲーテは確固たるリアリストだった。彼は自分に似たあらゆるものに「イエス」と言った。彼にとって最大の体験は、ナポレオンという「最もリアルな存在」だった。
ゲーテが思い描いたのは、強靭で、高度な教養があり、身体のあらゆる扱いに長け、自らをコントロールし、自分に対して敬意を払う人間だ。そのような人間は、自然さのすべてと豊かさをあえて享受することができ、その自由を持ちこたえられるほど強い。弱さからではなく強さゆえに寛容であり、普通の人間なら破滅してしまうような事柄さえも、自分の利益にする術を知っている。弱さから生じる「悪徳」であれ「美徳」であれ、弱さ以外にはもはや何ものも禁じられていない人間だ。
このように自由になった精神は、喜ばしく信頼に満ちた宿命論をもって万物の中心に立ち、「個々のものは非難されるべきかもしれないが、全体としてはすべてが救われ、肯定されている」と信じる。彼はもはや否定しない。
だが、このような信仰は、あり得るすべての信仰の中で最も高いものだ。私はこれを「ディオニュソス」の名で呼ぶ。
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ある意味で、19世紀全体もまた、ゲーテが個人として追い求めたものを目指していたと言えるかもしれない。理解すること、肯定することにおける普遍性、あらゆるものを受け入れる姿勢、大胆なリアリズム、そしてあらゆる事実に対する敬意だ。
なのに、どうして全体の結果が「ゲーテ」ではなく「混沌(カオス)」になり、ニヒリスティックなため息、どうしていいか分からない迷走、そして実際には絶えず18世紀へ逆戻りしようとする疲弊した本能になってしまうのだろうか?(たとえば、感情的なロマン主義、利他主義や過剰なセンチメンタリズム、好みの女性化、政治における社会主義などとして)。
19世紀、特にその終わり頃というのは、単に18世紀をより過激に、野蛮にしたもの、つまり「デカダンス(退廃)の世紀」にすぎないのではないか? そうだとすれば、ゲーテはドイツだけでなく、ヨーロッパ全体にとっても、単なる一時のエピソード、美しい徒花にすぎなかったのだろうか?
だが、偉大な人間を「大衆の役に立つか」という貧しい視点から見るのは、彼らを誤解することだ。彼らから何の役も引き出せないこと自体が、おそらく彼らの偉大さの一部なのだ。
ゲーテは、僕が心から敬意を払う最後のドイツ人だ。彼は僕が感じている3つのことを同じように感じただろうし、僕らはあの「十字架」についても通じ合っている……。
「なぜわざわざドイツ語で書くのか」とよく聞かれる。祖国ほど、僕の本がまともに読まれない場所はないからね。でも、そもそも僕が「今、この時代に読まれたい」なんて願っているかどうか、誰にわかるっていうんだ?
時の流れがいくら牙を剥いてもびくともしないものを作ること。形式の面でも、中身の面でも、ささやかな不滅を目指すこと。自分にそれ以下のものを求めるほど、僕は謙虚にできていないんだ。
格言や短文(アフォリズム)において、僕はドイツ人の中で最高の達人だけど、これらは「永遠」の形式だ。僕の野心は、他の誰もが一冊の本を使って語ることを「10の文」で言いきること――いや、他の誰もが一冊の本を使っても「語れない」ことを言ってのけることだ。
僕は人類に、彼らが持つ中で最も深い本である『ツァラトゥストラ』を与えた。そして近いうちに、最も自立した(何にも縛られない)本を与えるつもりだ。
11古代人から学んだこと
最後に、僕がアクセスしようとし、もしかしたら新しい入り口を見つけたかもしれない世界――「古代の世界」について一言言っておこう。
僕の好みは「何でも受け入れる寛容な趣味」とは真逆だから、ここでも十把一絡げに「イエス」と言うつもりは全くない。そもそもイエスと言うのが好きじゃないんだ。まだノーと言うほうがいいし、一番好きなのは何も言わないことだ。これは文化全体にも、本にも、そして場所や風景にも当てはまる。
実のところ、僕の人生において本当に価値のある古代の本は、ごくわずかしかない。世間で有名な本はその中には入っていないよ。
文章のスタイル、特にスタイルとしての「エピグラム(寸鉄人を刺す短文)」に対する僕のセンスは、サルスティウスに出会った瞬間に目覚めた。恩師のコルセン先生が、自分のクラスで一番ラテン語ができなかった僕に、最高評価をあげざるを得なかった時の驚き顔は、今でも忘れられない。僕は一瞬で覚醒したんだ。ぎゅっと凝縮され、厳格で、その奥底にできる限りの本質が詰まっていること。「美しい言葉」や「美しい感情」に対する冷ややかな悪意。これこそが自分に合っていると直感した。僕の『ツァラトゥストラ』を読めば、ローマ風のスタイル、つまり「青銅よりも永続するもの」としてのスタイルに対する僕の並々ならぬ野心がはっきりと分かるはずだ。
ホラティウスに初めて触れた時も全く同じだった。今に至るまで、ホラティウスの頌歌(オード)が最初から僕に与えてくれたような芸術的な恍惚感を、他のどの詩人からも得たことはない。言語によっては、ここで達成されているレベルを望むことすらおこがましい。
音として、配置として、概念として、すべての言葉が左右へ、そして全体へとエネルギーを放射しているような「言葉のモザイク」。文字の量と数を最小限に抑え、それによって文字のエネルギーを最大限に引き出すこと――これこそがローマ的であり、信じてもらえるなら、これ以上なく「気品溢れる(エレガント)」ものなんだ。それに比べれば、他のあらゆる詩はあまりにも大衆的で、ただの「お気持ちのおしゃべり」に過ぎない。
ギリシャ人からは、これほど強い印象はまったく受けなかった。はっきり言ってしまうと、彼らは僕らにとって、ローマ人のような存在にはなり得ないんだ。
ギリシャ人からは何も学べない。彼らのやり方は異質すぎるし、流動的すぎて、規範にも「古典」にもなり得ないんだ。ギリシャ人をお手本にして文章の書き方を覚えた奴なんて、一人だっているかい? ローマ人がいなかったら、誰もまともな文章なんて書けなかったはずだ。
だから「プラトンはどうなんだ」なんて反論はしないでくれ。僕はプラトンに対しては徹底的な懐疑論者だし、学者たちの間で定番になっている「芸術家プラトン」への賛美には、どうしてもついていけなかった。結局のところ、この点については古代の最も洗練された批評家たちも僕の味方をしてくれている。
プラトンはあらゆる文体をめちゃくちゃにかき混ぜてしまっている。そういう意味で、彼は文体のデカダン(退廃者)の第一号だ。メニッポス風サチュラ(ごった煮風の風刺文学)を生み出したキニクス学派と同じような罪を背負っている。
プラトンの対話篇のような、あの恐ろしく自己満足で子供じみた問答法(弁証法)が魅力的に見えるのだとしたら、それはフォントネルのような優れたフランスの作家を読んだことがないからに違いない。プラトンは退屈だ。
そして、プラトンに対する僕の不信感はさらに根深い。彼はギリシャ人のあらゆる根本的な本能からかけ離れていて、道徳まみれで、まるでキリスト教の前触れのような存在だ。すでに「善」を最高の概念に据えてしまっている。だから、プラトンという現象全体を表すには、他のどんな言葉よりも「お上品な詐欺」、もっと耳当たりのいい言葉がよければ「理想主義」というキツい言葉を使いたくなる。このアテネ人がエジプトで学んだせいで(あるいはエジプトのユダヤ人に学んだせいで?)、僕らは高い代償を払うことになった。キリスト教という巨大な厄災の中で、プラトンは「理想」と呼ばれる、あの曖昧で魅力的な罠だった。そのせいで古代の気高き人々は自分自身を見誤り、「十字架」へと続く架け橋を渡ってしまったんだ。そして、今の「教会」の概念、その構造、システム、実践の中に、どれほど多くのプラトンが居座り続けていることか!
あらゆるプラトン主義から抜け出すための僕の休養、お気に入り、そして治療薬は、いつだってトゥキディデスだった。トゥキディデスと、おそらくマキャヴェッリの『君主論』は、僕自身に最も近い。自分を騙さないという絶対的な意志を持ち、理性を「理性(というお題目)」や、ましてや「道徳」の中ではなく、「現実」の中に見出そうとするからだ。
「クラシックな教養を身につけた」若者が、ギムナジウムでの調教のご褒美として社会に持ち出す、ギリシャ人を美化して「理想」に祭り上げるあの惨めな美化癖。これを根こそぎ治療してくれる薬として、トゥキディデス以上のものはない。彼の文章は一行一行、裏までひっくり返して、言葉と同じくらいはっきりとその「裏の意図」を読み取らなければならない。これほど裏に深い考えを潜ませている思想家は、めったにいない。
彼の中で、ソフィスト文化――つまり「現実主義者(リアリスト)の文化」が完璧に表現されている。ソクラテス学派による道徳や理想のペテンがそこら中で大爆発していた真っ只中で、このリアリズムの動きは計り知れない価値を持っていた。ギリシャ哲学とは、ギリシャ的本能のデカダンス(退廃)にほかならない。対してトゥキディデスは、かつての古代ギリシャ人が本能的に持っていた、あの強く、厳しく、冷徹な「事実性」の巨大な集大成であり、最後の現れなのだ。
現実を前にしたときの「勇気」こそが、最終的にトゥキディデスとプラトンのような人間の本質を分ける。プラトンは現実を前にした臆病者だ。だからこそ理想へと逃げ込む。トゥキディデスは自分自身を支配できている。だからこそ、現実の物事をも完全に支配できているんだ。
ギリシャ人の中に「美しい魂」や「中庸(バランスの良さ)」などの完璧さを見出そうとしたり、彼らの「偉大さにおける静けさ」「理想的な精神」「高貴な単純さ」を賛美したりすること――この「高貴な単純さ」なんて、結局のところ「ドイツ的なおめでたさ」にすぎないが、僕の心の中にいる心理学者が、そんな罠から僕をばっちり守ってくれた。
僕は彼らの最も強力な本能である「権力への意志」を見抜いていた。彼らがこの抑えきれない衝動の凄まじさに怯える姿も、彼らのあらゆる社会制度が、内なる爆発物からお互いの身を守るための「安全対策」として作られ、発展していったプロセスも、僕には見えていたんだ。内側の凄まじい緊張は、やがて外へと向けられ、容赦のない恐ろしい敵意となって爆発した。都市国家(ポリス)同士が殺し合い、お互いを引き裂き合ったのは、それぞれの市民が自分自身の前で心の平穏を保つためだった。彼らは強くなるしかなかった。危険は目と鼻の先にあり、いたるところに潜んでいたからだ。
ギリシャ人特有のあの見事にしなやかな肉体美や、不敵な現実主義、そして非道徳性は、そうせざるを得ない「必要性」から生まれたものであって、生まれつきの「本性」ではない。それは後からついてきたもので、最初からあったわけじゃない。祭りや芸術にしても、要するに「自分たちが優位に立っている」と感じ、それを誇示するためのものにすぎなかった。自分たちを美化し、場合によっては自分たちを恐れさせるための手段だったんだ。
それなのに、ドイツ流のやり方で哲学者を基準にしてギリシャ人を評価したり、ソクラテス学派の「お行儀の良さ」をギリシャ人の本質を解き明かす手がかりにするなんて! 哲学者たちこそ、ギリシャ精神のデカダン(退廃者)であり、古く高貴な感性(競争本能、都市国家、血統の価値、伝統の権威)に対する反動勢力だったんだから。
ソクラテス的な美徳が説かれたのは、ギリシャ人がそれを失ってしまったからだ。怒りっぽく、臆病で、移り気で、みんな揃って「役者」だった彼らには、道徳を説かれるべき理由がありすぎた。それで何かが解決したわけじゃないけれど、立派な言葉やポーズをとることは、退廃者たちに実によくお似合いだからね。
かつての、まだ豊かで溢れんばかりだったギリシャ人の本能を理解するために、「ディオニュソス」というあの驚くべき現象を初めて真面目に取り上げたのは、僕だ。これは、エネルギーが「有り余りすぎていること」からしか説明がつかない。バーゼルのヤコブ・ブルクハルトのような、現存する最高のギリシャ文化の理解者なら、僕のこのアプローチが決定的な仕事だったとすぐに気づいた。実際、ブルクハルトは著書『ギリシャ文化史』に、このディオニュソス現象に関する独自の章を付け加えたほどだ。
逆に、この対極を見たければ、ドイツの古典文献学者たちがディオニュソス的なものに近づいたときに見せる、呆れるほどお粗末な本能の欠如を見てみるといい。特に有名なローベックだ。彼は本に挟まれて干からびた虫のような、いかにも学者然とした自信満々な態度で、この神秘に満ちた世界に這い込んできた。そして、ヘドが出るほど浅はかで子供じみた解釈をすることで、自分は「科学的」な仕事をしていると思い込んだ。ローベックはありったけの衒学(ペダンツィー)を総動員して、「こういった奇妙な儀式なんて、実のところ大した意味はない」とほのめかしたんだ。
「実際、神官たちは狂乱の儀式(オルギア)の参加者たちに、それなりに役立つことを教えていたのだろう。例えば『ワインは気分をアゲる』とか、『人は場合によっては木の実を食べて生きる』とか、『植物は春に芽吹き、秋に枯れる』といったことだ」とね。古代世界を文字通り覆い尽くしていた、あの不気味なほど豊かな狂乱の儀式、シンボル、神話の数々。ローベックはそれを見て、さらに一段と「お利口な」説をぶち上げた。
彼はこう言っている(『アグラオファムス』第1巻672頁)。
「ギリシャ人たちは、他にやることがなければ笑い、飛び跳ね、暴れ回った。あるいは、たまにはそういう気分になることもあるからと、座り込んで泣きわめいた。後になって別の連中がやってきて、その妙な行動に何かしらの理由を付けようとした。こうして、それらの習慣を説明するために、数え切れないほどの祭りの伝説や神話が生まれたのだ。その一方で、祝祭日にたまたま行われていたそのおどけた騒ぎが、祭りには不可欠なものだと思い込まれ、礼拝の欠かせない一部として定着したのである」――
全くくだらないおしゃべりだ。ローベックなんて一瞬たりとも真面目に相手にする必要はない。
だが、ヴィンケルマンやゲーテが作り上げた「ギリシャ gentleman」というような概念を検証し、それがディオニュソス的芸術の源泉である「熱狂(オルギズム)」と真っ向から衝突するのを見るとき、僕らは全く違う感慨を抱く。実際、ゲーテなら、そうした熱狂的な要素をギリシャ人の精神の可能性から根本的に排除しただろう。ということは、ゲーテはギリシャ人を理解していなかったんだ。
なぜなら、ディオニュソスの神秘劇や、あの熱狂状態の心理の中にこそ、ギリシャ的本能の根本的な事実――「生への意志」が表現されているからだ。ギリシャ人はこの密儀によって、自分たちに何を約束したのか? それは、永遠の生であり、生の永遠の回帰だ。過去において約束され、聖化された未来。死や変化を超えて、生に対して放たれる勝利の「イエス」だ。生殖や性の神秘を通じて、全体として生き残り続ける「真の生」だ。
だからこそ、ギリシャ人にとって「性」のシンボルは、それ自体が神聖なシンボルであり、古代の信仰における真に深い核心だった。生殖、妊娠、出産というプロセスのすべてが、最も崇高で厳かな感情を呼び起こした。密儀の教えにおいて、苦痛は聖なるものとされた。妊婦の「産みの苦しみ」は、あらゆる苦痛を聖なるものにする。あらゆる生成と成長、未来を保証するすべてのものは、苦痛を伴うのだから。
創造の喜びが存在するためには、生への意志が永遠に自分自身を肯定するためには、同時に永遠の「産みの苦しみ」がなければならない……。
これらすべてを意味するのが「ディオニュソス」という言葉だ。このディオニュソス祭に代表されるギリシャのシンボリズム以上に、高貴な象徴表現を僕は知らない。そこでは、生の最も深い本能、つまり生の未来や永遠へと向かう本能が宗教的に感じ取られており、生へと至る道そのもの、すなわち「生殖」が聖なる道とされていた。
その根底に生命への憎悪を抱えるキリスト教になって初めて、性は「汚らわしいもの」に変えられてしまった。僕たちの命の始まり、その大前提に、キリスト教は泥を投げつけたんだ。
苦痛さえもが刺激として働くような、溢れんばかりの生命力とエネルギーの感覚としての「熱狂(オルギズム)」の心理学。これこそが、アリストテレスや、特に僕らの時代の悲観主義者たちに誤解されてきた「悲劇的感情」の概念を解き明かす鍵を、僕に与えてくれた。
悲劇は、ショーペンハウアー的な意味での「ギリシャ人の悲観主義」を証明するどころか、むしろそれに対する決定的な拒絶であり、反証なのだ。最も奇妙で最も過酷な問題に直面しても、なお生に対して「イエス」と言うこと。最も崇高なタイプの人々が犠牲になる中で、自らの尽きることのない生命力を歓喜する「生への意志」――これを僕は「ディオニュソス的」と呼び、悲劇詩人の心理へと至る架け橋だと確信した。
恐怖や同情から逃れるためでも、危険な感情を激しく吐き出すことでカタルシス(浄化)を得るためでもない(アリストテレスはそう誤解していたけれど)。そうではなく、恐怖や同情を超えて、変化し続ける生成そのものの「永遠の喜び」になるためだ。その喜びとは、破壊することへの喜びさえもその内に含んでいる……。
そして、これで僕はかつて出発したあの場所へと戻ってきた。僕の最初の「すべての価値の価値転換」は『悲劇の誕生』だった。こうして僕は、自分の意志や能力が育った土壌に再び戻ってきた。――哲学者ディオニュソスの最後の弟子であり、永遠回帰の説教師である、この僕に。
12槌は語る
『ツァラトゥストラはこう語った』第3部より
「なぜそれほどまでに硬いのか!――かつて台所の炭は、ダイヤモンドに向かってこう言った。私たちは近親の者(親戚)同士ではないのか?」
なぜそれほどまでに柔らかいのか? おお、私の兄弟たちよ、私はあなた方にこう問う。あなた方は――私の兄弟ではないのか?
なぜそれほどまでに柔らかく、屈しやすく、譲歩してしまうのか? なぜあなた方の心には、それほど多くの否定と自己否定があるのか? あなた方の眼差しには、なぜそれほどまでに運命が欠けているのか?
そして、あなた方が自ら運命とならず、冷酷無情な者とならないのであれば、どうしていつか私と共に――勝利することができようか?
そして、あなた方の硬さが、閃光を放ち、切り裂き、切り刻もうとしないのであれば、どうしていつか私と共に――創造することができようか?
およそ創造する者はすべて硬いのだ。そして、何千年もの歳月に、まるで蝋(ワックス)に対するかのように己の手を押し当てること――
――何千年もの歳月の意志の上に、まるで青銅の上に刻むかのように、しかも青銅よりも硬く、青銅よりも高貴に刻み込むこと、これこそが至上の幸福(至福)と感じられねばならない。
最高に硬いものだけが、最も高貴なのだ。
おお、私の兄弟たちよ、私はこの新しい書き板をあなた方の上に掲げる。
「硬くなれ!」
(完)